大坂夏の陣の開戦前夜、大野治長が大坂城の桜門で襲撃された真相とは
大河ドラマ「どうする家康」では、大坂夏の陣の開戦前夜が描かれていた。豊臣方は徳川方と和睦を結んだものの、最終的に破綻した。ドラマでは取り上げられていなかったが、大坂城の桜門で大野治長が何者かによって襲撃された。その真相について考えてみよう。
慶長19年(1614)、豊臣方は、大坂城の惣構を破却すること、堀などを埋め立てることなどを条件として、徳川方と和睦を結んだ。もう一つの重要な条件は、豊臣方の牢人衆の罪を問わないことである。
これは、彼ら牢人衆を大坂城外に召し放つことを意味した。しかし、牢人衆は職を失うので、納得しなかったに違いない。なかなか牢人衆の退去が進まなかった。
同時に明らかになったのが、豊臣家中において、和睦派と徹底抗戦派との対立があったことだ。後者には、牢人衆が加担していた。和睦を結んだとはいえ、豊臣家内部では方針をめぐって、分裂し揉めていたのである。
そんな豊臣家中の分裂を象徴したのが、慶長20年(1615)4月9日に勃発した大野治長襲撃事件である。以下、その概要について触れておこう。
4月9日夜、大野治長が大坂城の桜門のあたりで、刺客に襲撃された。治長は大事に至らず、犯人も捕らえられたが、結局黒幕は明らかにならなかった。
この暗殺未遂事件の犯人については、多くの憶測が流れた。対徳川の強硬派で治長の弟の治房は、その有力な犯人候補だった(治長は和睦派)。あるいは家康が刺客を送り込んだとか、片桐且元が怪しいなど、さまざまな噂が流れたのである。
レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』によると、捕まった犯人は拷問しても口を割らなかったというが、誰もが家康の仕業であると疑わなかったと記している。
ところが、『日本切支丹宗門史』は後世に成ったものであり、信頼度が低い史料である。真に受けていいものなのか、いささか疑問が残るところである。
むしろ、豊臣家中が3つ(和睦派、徹底抗戦派、その他)に分裂していたという織田有楽の証言を信じるならば、治長の対立派が放った刺客と考えるべきであろう。
当時、まだ徳川方との交渉が難航していたことから、対立派は交渉役の治長への不満が募っていたと考えられる。対立派とは、先述した牢人衆を中心とする徹底抗戦派である。
その後、家康のもとに大坂城へ多数の牢人衆が集まっているとの情報が寄せられた。さすがの家康も堪忍袋の緒が切れて、豊臣家を滅ぼそうと決意した。
こうして同年4月下旬頃から、豊臣方と徳川方との戦いが再開されたのである(大坂夏の陣)。開戦は、和睦派の治長にとって、不本意だったに違いない。
主要参考文献
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)