朴槿恵大統領の父はなぜ、暗殺されたのか? 米国の意に反した核開発が真の理由か?
北朝鮮の核の脅威にさらされている韓国内で政権与党や保守系メディアを中心に核武装論が台頭している。
核武装といっても、独自に開発して、保有すべきとの主張から、1991年に撤収した戦術核の在韓米軍への再配備の二つに分かれているが、前者は大統領選挙の有力候補である与党・セヌリ党の金武星前代表や元裕哲前院内代表(国会対策委員長)、金文洙前京畿道知事らが急先鋒となっている。
核武装は現状では、朴槿恵大統領をはじめ現政府が検討していないことや野党がこぞって反対していることから大勢には至ってはない。何よりも米国が容認しない限り、韓国の核武装は簡単な話ではない。
韓国はかつて一度だけ、朴大統領の父、朴正煕大統領の時代に極秘に核開発を進めていた経緯がある。だが、1979年10月26日に側近の金載圭・中央情報部(KCIA)部長に暗殺されてしまった。暗殺の背後に「米国の影」がちらついていた。
暗殺事件が起きる5か月前まで駐韓米軍司令官の座にあったジョン・ベッシー米陸軍参謀次長(1982年に統合参謀本部議長に就任)は暗殺事件前夜、ニューヨークでのアジア協会主催の夕食会で20分ほどスピーチを行ったが、スピーチは以下のような言葉で締めくくられていた。
「米国の対韓関係が予想できない方向に発展していくであろうことは疑う余地がないが、たとえ特別な事件が起こったとしても、現在の対韓関係を冷戦の遺産としてのみ捉えてはならず、全てにおいて、将来に大きな期待をもたらすものと考えるべきである」と。
「特別な事件が起こったとしても」との発言は、ベッシ―将軍が朴大統領の身辺に何かが起きることを事前に知っていたのではないかと勘繰られても不思議ではないほど意味深長な発言だった。
当時、ホワイトハウスや国防・国務省の内幕情報に定評のある香港誌「ファー・イースタン・エコノミック・レビュー」のワシントン支局長、S・バーバ記者は事件直後いち早く「(朴大統領射殺の一報に)米当局者は驚きを示さなかったし、当惑もしてなかった」と書き、さらに事件後ソウルに飛んだ「ニューヨーク・タイムズ」のヘンリー・スコット記者は11月4日付けの同紙に韓国与党(民主共和党)の創設に参加した韓国人ジャーナリストの「殺ったのは韓国人だが、支持したのは米国だ」とのコメントを掲載していた。
「米国背後説」を裏付ける決定的な「証拠」は暗殺実行犯の金載圭部長の「私の後ろには米国がついている」の一言だ。
朴大統領の暗殺当夜の午後11時から国防部で臨時閣僚会議が開かれたが、金部長はその場で「大統領を殺したのは私だ。私と一緒に新しい韓国を創ろう。私の後ろには米国がついている」と語っていた。
では、米国が暗殺の黒幕だとしたら、その理由は何か?ずばり、朴正煕大統領が保護国である米国の警告を無視し、米国の核の傘から外れ、核武装を秘かに進めていたことにあったのかもしれない。
朴正煕大統領はアメリカが支援していた南ベトナム政府が1975年に陥落し、北ベトナムに武力統一された「ベトナム」や米中国交正常化(1978年)で見捨てられた台湾の教訓からいつの日か米国は米軍を韓国から撤収させ、韓国を見限るという危惧から米国離れを進めていた。
当時、朴東鎮外相はバンス米国務長官との会談で「今後は実利最優先で、独自的外交を展開する」と通告し、米国が反対していた対ソ接近やPLO承認で従来の対米追随外交の一部修正を仄めかしていた。それだけではない。
朴正煕大統領は「米国が出ていくならば核を自力で開発する」(ワシントン・ポスト、1975年6月13日付)と公言し、朴東鎮外相も1978年5月に「国家保全のため核開発もあり得る」と追い打ちを掛けるなど、米国を当惑させていた。実際に朴正煕政権は核武装化も進めていた。
朴大統領暗殺前年の1978年4月、韓国初の原子力発電所・古里1号が慶尚南道・釜山で稼働し、韓国は世界で21番目の原発国家となっていた。
朴正煕政権はウラン濃縮技術にも積極的に取り組み、1977年12月に核燃料開発公団が設立されたが、公団の目的は国内外の原子力技術者を総動員し、ウラン235の精密探査と濃縮技術開発を国家プロジェクトとして進め、1980年までに核燃料の国産化をはかることにあった。
朴正煕政権は1976年1月に米国の反対を押し切り、カナダから重水型原子炉CANDUを1基購入する契約を結んでいた。発電用に天然フランが使用されるので1年間稼働させると、副産物として原爆の原料となるプルトニウム239が250キログラム生産される。さらに、この年にはフランスの協力を得て、核兵器を製造する再処理施設を忠清南道大徳研究団地に建設する計画も立てていたが、これは米国の圧力によって中止に追い込まれた。
「ワシントン・ポスト」(1976年1月30日付)は、米国が圧力を掛け、輸入中止に踏み切らせたのは米国の手の届かないところで核兵器が製造されるのを恐れたためである」と報じていた。
同記事によると、米国務省は韓国がフランスから再処理施設を購入するなら、韓国が米国から輸入する予定の二番目の原子力発電所の輸出許可と2億9200万ドルの輸出入銀行融資を棚上げにすると圧力を掛けていた。
朴大統領が暗殺される3年前の1976年2月12日、ワシントンのブルッキング研究所は「韓国における抑止力と防衛」と題する報告書を出していたが、その中で「韓国は1980年代に核兵器を生産し、実験する能力を有するであろう」と予測していた。また、同じ年の76年、在ソウルの西側専門家グループがまとめた「韓国の核兵器開発について」と題するレポートも「韓国は核武装の意思が明らかで、5年後の1981年には原子爆弾製造が可能である」と指摘していた。
米国の勧告や警告を無視し続け、人権抑圧を止めない、核開発の野望を捨てない朴正煕大統領を米国が煙たがっていたのは公然たる事実であった。
1977年に登場したカータ―政権は人権外交を進めるためにも、公約の在韓米軍撤退を実現させるためにも、また北朝鮮との和平を進めるためにも「米国離れ」しつつある朴大統領の存在は大きな障害となっていた。
米国にとって必要なのは、米国のアジア戦略の遂行を妨げない政権、同戦略に積極的に順応する政権である。朴正煕政権が米国の政策に順応しない限り、朴正煕大統領排除以外に選択肢がなかったのかもしれない。
北朝鮮の核武装にいくら苛立っても、朴槿恵大統領は暗殺された父親の教訓からも米国の反対を押し切ってまでも核開発に走ることはないだろうが、韓国からの米軍撤収を主張し、韓国の核武装を容認するドナルド・トランプ共和党大統領候補が次期大統領になれば、もしかすると、核武装に舵を切るかもしれない。