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五大老と五奉行の呼称は、間違いだったのか? 最新研究から探ってみる

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
五大老の一人、前田利家像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、ようやく五大老(徳川家康 ・ 毛利輝元 ・ 上杉景勝 ・ 前田利家 ・ 宇喜多秀家 )と五奉行(浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)の活躍が見られそうだ。

 かねて、五大老と五奉行の呼称は問題となっていたが、何が問題になっているのか考えてみよう。

 五大老と五奉行という呼称は、江戸時代以降に使われたもので、江戸幕府の大老をイメージして造語されたという。

 五大老は「奉行」、五奉行は「年寄」と呼ばれていたと指摘したのは、阿部勝則氏である。この説によると、通説の五大老は五奉行であり、五奉行は五大老の意になる。しかし、混乱を避けるため、従来のままの呼称と意味で用いられた。

 堀越祐一氏は五奉行を「年寄」とする史料が存在する一方、あるときは「奉行」とする史料も数多く確認できると指摘した。

 「年寄」は「宿老」と同義で、大名家の重臣を意味する。一方、「奉行」はそれよりも一段低く、上位者の命令を執行する立場にある。「年寄」は「奉行」よりも、高い地位だったといえる。

 では、どのような状況で、彼らは「年寄」あるいは「奉行」と呼ばれたのだろうか。

 石田三成ら五奉行の面々は、五大老のことを「奉行」と呼び、自分たちを指して「年寄」称した。逆に、五奉行は自分たちを「奉行」と呼ばなかった。

 一方、家康らは五奉行を「奉行」と呼んだが、五大老を「奉行」と呼ばず、ましてや五奉行を「年寄」とは呼ばなかった。これは、いったいどういうことなのか。

 三成らは家康らを「奉行」と呼んで、自分たちが身分が高い「年寄」であると自認した。逆に、家康らは自分たちが「奉行」でなく、三成らが「年寄」であると認めていなかった。

 つまり、「年寄」あるいは「奉行」という呼称は、それぞれの政治的な立場を自認して用いられたと指摘されている。

 このように見ると、五大老と五奉行のどちらが格上、あるいは格下という考え方では捉えられないようだ。五大老は大名の領地を宛がい、五奉行が豊臣家の直轄領を主に管理するなどしていたが、それはあくまで役割分担に過ぎない(ほかにも、それぞれの職務がある)。

 実際の政治では、五奉行が結束すれば、家康に対抗しうる力を持っていた。それは、ときに五大老の重鎮である前田利家を動かし、毛利輝元を味方に引き入れるだけの潜在能力を秘めていたのだ。

 五大老も五奉行も豊臣政権を運営するうえで、それぞれの役割分担は異なっていたものの、ほぼ同格だったと考えてよいだろう。五大老と五奉行の関係は、単に名称にこだわって上下を論じるのではなく、実際の政治情勢から力学を読み取る必要がある。

 これまで、五大老が政権の中枢に位置し、五奉行はその下で実務を担っていたと考えられてきたが、近年の研究により改められる必要がある。また、従来の五大老と五奉行の意味だけでなく、関ヶ原合戦そのものの解釈も変わる可能性がある。

主要参考文献

阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49-2、1989年)

堀越祐一『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、2016年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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