シリア:「常態化した非常時」から「実体化した非常時」へ (3)内戦がもたらした国家社会関係の変化
劣化する「非常時」
ハーフィズ・アサドが確立し、バッシャール・アサドが世襲した権威主義は、「常態化した非常時」のもとで正統化され、円滑に機能していた。しかし、非常事態と革命の永続化の根拠となってきた内外の政治状況は変化していった。
非常事態は、H・アサド政権発足当初は現実の政治を反映していた。同政権は発足後、1967年の第三次中東戦争での大敗の汚名を返上すべく、エジプトとともにイスラエルとの戦争を準備し、1973年の第四次中東戦争に臨んだ。しかし、その後、国家間戦争は影を潜めた。エジプトとイスラエルを挟撃することを基調としていたシリアの軍事戦略は、1978年のキャンプ・デーヴィッド合意でのエジプトとイスラエルの和平により変更を余儀なくされた。シリアは1980年代を通じて、「戦略的均衡」(strategic parity)路線を採用し、イスラエルと単独で軍事的に対峙しようとした。だが、東西冷戦終結(1989年)とソ連崩壊(1991年)によって、ソ連、そしてロシアの軍事的後ろ盾が期待できなくなると、既存の防衛能力を維持することがめざされ(青山[2002b])、米国から圧倒的な軍事支援を受けるイスラエルとの直接軍事対決に踏み切ることの現実味は薄れていった。
折しも1991年にスペインの首都マドリードでの国際会議の開催によって中東和平プロセスが始まり、ヨルダンやパレスチナ解放機構(PLO、Palestine Liberation Organization)がイスラエルとの和平合意を結ぶなか、シリアもイスラエルと二国間交渉を行った。だが、「公正且つ包括的和平」(al-salam al-‘adil wa al-shamil)という基本方針のもと、強硬な姿勢をとり続けたシリアがイスラエルと和解することはなかった。交渉が頓挫した1990年代半ば、シリアは、今度は「和平は戦略的選択肢」(al-salam khiyar istratiji)とする路線を採用し、対イスラエル武装闘争を継続するレバノンのヒズブッラーやパレスチナ諸派を軍事面・外交面で支援することで、イスラエルとの戦いをアウトソーシング(外注)するようになった。かくして、シリアは「非常時」維持の根拠だったイスラエルとの全面衝突を回避し、「戦争なし平和なし」(la harb wa la salam)という微妙な均衡のもとで、中東における存在感を誇示するようになっていった。
この時期、バアス革命の威光も色褪せていった。バアス党は、憲法の明文を通じて政治制度のなかに埋め込まれたが、革命政党としてのダイナミズムは失われていた。バアス党は、社会の動員や真の権力装置への権威の付与といった面で重要な役割を担っていたが、体制の私物化が進行した国家の支配を支える権力装置になりさがり、既得権益の担い手となってしまっていた。H・アサドの死、そして革命当初から彼と行動を共にしてきた古参の死や退任は、こうした流れを加速させた。
官制NGOを通じた改革の試み
ジュムルーキーヤへと移行した権威主義は、改革志向を誇示することで統治の正統性を得ようとした。これは、意識的であれ、無意識的であれ、「常態化した非常時」の劣化に対処しようとするものでもあった。
B・アサドは、次期後継者としての台頭を始めた1990年代半ばから、シリア情報科学協会(SCS、Syrian Computer Society)会長を務め、若手テクノクラートの育成や、インターネット・サーヴィスの導入を主導し、近代化、ハイテク化、グローバル化の旗手と位置づけられ、その改革志向や開明性が強調された。
2000年7月の人民議会での就任演説でも、「創造的思考」、「建設的批判」、「透明性」、「制度重視の思考」、「民主的思考」といった言葉で、多角的な改革を行う意志が示された(SANA, July 17, 2010)。B・アサドはまた、前政権が公に認めようとしなかった政治犯の存在を認め、11月に大規模な恩赦を実施した。メディアの規制も緩和し、民間・非政府系の日刊紙、雑誌の創刊を奨励した(青山[2002a])。
B・アサドを党首(シリア地域指導部書記長)とするバアス党が2005年6月に開催した第10回シリア地域大会(党大会)でも、改革の深化が協議された。そこでは、進歩国民戦線以外の政党を公認するための政党法の制定、民間メディアの奨励に向けた情報法の制定や出版物法の改正、選挙制度の見直し、国籍を剥奪されたクルド人の権利回復、社会における国家の役割と市場経済のバランスを確保した「社会市場経済」(iqtisad al-suq al-ijtima‘i)の導入の是非が審議されるとともに、「常態化した非常時」を支えてきた非常事態の適用基準の見直しが検討された(青山[2005])。
これら改革案は、2005年のレバノンのラフィーク・ハリーリー元首相暗殺事件を契機とした欧米諸国のシリア・バッシングへの対応が最優先となるなか(青山・末近[2009: 77-114])、実行に移されることはなかった。しかし、そうしたなかでも着実に推し進められた施策があった。国家社会関係の再編に向けた取り組みである。
バアス党を結節点とし、人民諸組織や職業諸組合を介して織りなされていた国家社会関係は、教育水準の向上、都市化、第2次インフィターフと称された1990年代の規制緩和政策、さらには東西冷戦終結の結果として「より複雑な市民社会」が表出したことで、形骸化が進み、国家の統制下にない「オルターナティブな(市民)社会」を拡大させていた(Hinnebusch[1993: 251-252][2001: 89, 104-106]、Métral[1980])。H・アサドのもとで確立した国家コーポラティズム的な国家社会関係は綻びを見せており、事態に対処する必要があったのである。
国家社会関係の再編は、社会市場経済導入に向けた試みの一環として推し進められた。社会市場経済は、①より近代的・発展的な方法を通じて国家の経済生活への関与を継続する一方で、その関与のありようを直接的なものから間接的なものに漸進的に移行する、②戦略的部門において国有セクターを漸進的に再建する、③非効率な活動から国家および国有セクターを撤退させる、④諸外国との二国間合意、大アラブ自由通商地域合意、締結予定のシリア・EU協力合意に沿ったかたちで規制・保護を緩和する、という4点を骨子とした(Kanʻu[2005])。
このヴィジョンは国家計画委員会が策定した第10期五カ年計画(2005~2010年、Hayʼa Takhtit al-Dawla[2006])のなかで、社会・経済政策としてかたちを与えられた。同計画では、社会市場経済への移行のために、「シリア社会の基本的な諸勢力(政府、民間セクター、人民諸組織を含む市民社会諸組織)のあいだで新たな社会契約を結ぶこと…が求められる」(Hayʼa Takhtit al-Dawla[2006: 2])としたうえで、「中央政府だけではなく、地方自治体、民間セクターとともに、NGO、市民社会を構成する組織・個人も[開発に]責任を担う」とし、その役割を強化することを目標に掲げた(Hayʼa Takhtit al-Dawla [2006: 10])。
具体的には、「NGOおよび人民諸組織を含む市民社会諸組織の役割」と題された項目において、NGOに以下の活動への参加を奨励し「地域社会の開発に人民を動員」する役割が付与された――①貧困撲滅、②雇用機会の創出、③職業訓練、④女性や子供の支援、⑤家族計画、⑥環境保護、⑦国家機関の制度改革(透明性の確保、汚職撲滅)への協力、⑧消費者の権利保護、⑨農村開発(Hayʼa Takhtit al-Dawla [2006: 13-14])。また「中央政府、地方政府、民間セクター、NGO、市民社会、市民の間で社会開発の責任を担うための協力と協調を作り出す必要」が強調された(Hayʼa Takhtit al-Dawla [2006: 34])。
バアス党第10回シリア地域大会と第10期五カ年計画は、B・アサドへの権力移譲と時を同じくして増加し始めていたNGOを活性化させた。2005年には推計で625団体(al-Thawra, April 3, 2005)とされていたNGOは、2010年には1,240団体(推計、DP-News.com, May 3, 2010)に増加した(注1)。
主なNGO組織は表1に示した通りである。これらを俯瞰すると、活動分野や理事会メンバーなど幹部の構成において以下三つの特徴があることに気づく。第1に、青年の起業活動の支援や社会的弱者の救済をめざしている点、第2に、B・アサドの夫人であるアスマー・アフラス、B・アサドのいとこのラーミー・マフルーフなど、大統領に近い人物が運営、資金援助に関与している点、そして第3に、国家の政策方針に合致したかたちで活動する官制NGOとしての性格が強いという点である。
表1 主なNGO
NGOは権力の二層構造を構成する名目的権力装置、真の権力装置のいずれにも属しておらず、これらの権力装置が支配の対象としている社会のなかに存在している(ないしは社会の成員によって構成されている)点でこれらの権力装置とは異なっている。とはいえ、それは官制NGOとしての性格ゆえに、国家の支配を支える政治的役割を担うことを期待されていた。その役割とは、資金援助や技術支援を通じて社会成員に社会・経済的成功の機会を提供し、彼らに国家・社会建設に参加しているという意識を与えるというものだ。換言すると、NGOは、あたかもシリアの政治構造において「第三層」(注2)とでも呼ぶべき新たな権力装置をなすことで、権威主義を是とし、その維持強化に資するような市民社会を建設するために機能することが企図されたのである。
官制NGOの成否をめぐる評価は両義的である。「アラブの春」がシリアに波及し、各地で体制打倒、自由や尊厳の実現を求める抗議デモが高揚したことは、官制NGOを通じた市民社会建設に向けた試みが失敗、ないしは頓挫したことの現れだとみなすこともできる。だがその反面、官制NGOのなかで育成された若い世代が、形骸化した人民諸組織や職業諸組合に代わって、国家の動員力維持において主導的な役割を果たすようになったことも見逃すべきではない。2011年6月に首都ダマスカスで数十万人を動員して、全長2,300メートルの巨大なシリア国旗を掲揚し、国家主導の包括的改革プログラムへの支持を表明した集会、2016年10月にダマスカスで開催された「I Damascus」マラソン大会は、こうした官制NGOによって自発的に企画・実施された(注3)。
国家社会関係の希薄化
シリア内戦(注4)は、1970年以来続いてきた権威主義だけでなく、国家そのもの、さらには社会までも存続の危機に晒すことになった。この危機的状況は、国家社会関係に希薄化と親和化という真逆の現象をもたらした。
国家社会関係の希薄化は、「アラブの春」が波及するかたちで2011年3月に地方都市、町、村で散発した抗議デモに、国家がその暴力装置をもって社会に過剰なまでに弾圧を加えたことで顕在化した。弾圧の被害者となった社会は、体制打倒を主唱、またその一部が武装化することで国家の支配を脱していったのである。こうした状況は、欧米諸国、トルコ、サウジアラビアをはじめとするアラブ湾岸諸国による経済制裁発動と前後して、自由シリア軍を名乗る武装集団が活動を本格化させた2011年9月頃から顕著となり、アル=カーイダの系譜を汲む外国人イスラーム過激派が跋扈するようになった2012年半ば以降急激に加速した。
国家機関内でも、国家社会関係の希薄化に類する動きが生じた。軍や省庁における離反である。シリア内戦以前、常備軍32万5000人、予備役約35万人とされていたシリア軍は、脱走や徴兵忌避によって、2012年には29万5,000人、2013年以降には17万8,000人に減少した(AFP, October 18, 2014、IISS[2011])。また、省庁では、2012年8月には当時首相に就任したばかりのリヤード・ヒジャーブが離職し、家族を連れてヨルダンに脱走したほか、外務在外居住者省などの幹部も離反した。彼らの多くは、当局の逮捕を逃れるため、シリア国外に居場所を求めた。
しかし、国家社会関係の希薄化のなかでもっとも深刻な事象は、国内避難民(IDPs、internally displaced persons)、難民そして移民の発生だった。彼らは、国内での暴力の応酬を避けるため、あるいはインフラ破壊や経済制裁によって逼迫した生活を建て直すための経済的機会を得るため、さらには疲弊した国家が提供できなくなった福祉を受けるため、これまで暮らしていた場所を後にした。なかには、国家が用意した仮設避難センターや復興住宅に身を寄せるものもいたが、多くは国家との関係を失った。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR、United Nations High Commissioner for Refugees)や国連人道問題調整事務所(UNOCHA、United Nations Office for the Coordination of Humanitarian Affairs)の推計によると、難民(そして移民)は2015年7月には400万人を超え、IDPsは2014年1月に700万人に達した(UNHCR Data PortalおよびUNOCHAのホームページ参照)。
なお、国家との関係を絶った社会から輩出された反体制派のなかでは、「疑似国家」(quasi-state)、ないしは「国家内国家」(state-in-state)とでも言うべき政体樹立をめざす動きが相次いだ。クルド民族主義組織の民主統一党(PYD、Partiya Yekitiya Demokrat)による西クルディスタン移行期民政局(通称ロジャヴァ[Rojava])の設置(2014年2月)や北・東シリア自治局の樹立(2018年9月)、イスラーム国(Islamic State、IS、ダーイシュ[da‘ish])によるカリフ制樹立(2014年6月)、反体制派の「解放区」(al-manatiq al-muharrara)で軍事・治安権限を掌握し、シリアのアル=カーイダとして知られるシャーム解放機構(旧シャームの民のヌスラ戦線)の自治機関であるシャーム救国内閣の樹立(2017年月)、そして革命家を自称する活動家や地元の名士による地元評議会設置の試みがそれである。しかし、これらは、国家を侵食し、それを弱体化させることはあっても、国家そのものにとって代わることはできず、シリア内戦がアサド政権に有利なかたちで決着を見せるなかで縮小、あるいは瓦解していった。
国家社会関係の親和化のカギとなった民兵
これに対し、国家社会関係の親和化は、勧善懲悪を基調とする「アラブの春」のステレオタイプや権威主義への感情的評価に囚われると、実態を理解することが難しくなる。弱体化した「悪」である国家の機能を、本来それに抗うはずの「善」の社会が補完する一方で、国家がそうした役割を社会に期待するという現象が生じたからだ。
社会が補完した国家機能は多岐に及んだ。2005年以降加速した官制NGO育成策が奏功し、「アラブの春」波及後に自発的に政権を支えようとする示威行動を発生させたことについては前述したが、官制NGOは、人民諸組織や職能組合に代わって動員機能を担っただけではなく、戦傷者、孤児、避難民のケアや福祉の提供に積極的に参加していった。
しかし、国家を延命させ、シリア内戦における勝者となることを可能としたのは、他ならぬ暴力装置の補完だった。なぜなら、暴力装置こそが権力の二層構造の中軸をなしており、また武力紛争としてのシリア内戦は、シャーム解放機構、「国際社会最大の脅威」と言われたイスラーム国を含む反体制派と戦い抜くだけの物理的な力が必要だったからである。
そのカギとなったのが民兵だった。シリア内戦の文脈に限らず、民兵は、社会の成員である市民に属さないと考えられることが多い。だが、民兵は、武装への賛否はともかく、社会を構成する一要素と定義されるのが一般的である。例えば、武内[2009]は『世界大百科事典』[1988]の記述に即して「民兵とは幅広い概念だが、ここではさしあたり「常時在営して軍務に服するのではなく、日常は家業その他一般的職業に従事し、有事に際しては緊急に動員されて編成される武装集団または兵士」という一般的な定義を当てておこう」と述べている。また南アフリカの事例を取り扱ったGayer and Jaffrelot, eds.[2009]は「何らかの主義、イデオロギー、計画のために暴力――物理的、心理的――を働く組織で…、少人数のグループのかたちをとることもあれば、歴とした私兵のかたちをとることもあり…、テロ集団と似た技術を駆使するが、少なくとも1点、すなわち、草の根支援を得るために社会のために活動するという点が違う」と定義している。
民兵はシリア内戦以前から存在していた。バアス党の民兵、ないしは「労働者の民兵」(workers’ militia)と目された人民軍、1970年代半ばにH・アサドの親戚縁者が組織した武装犯罪集団「シャッビーハ」(shabbiha)がそれである。このうち国家コーポラティズム的な国家社会関係のなかで編成されていた人民軍は、シリア内戦で弱体化した国家の暴力装置を補完することはなかった。一方、シャッビーハは、各地で散発的な抗議デモが発生した際、その弾圧に加わった。だが、シリア内戦における暴力の応酬が激化し、武力紛争としての性格を強めるなか、次第に影を潜めていった。
シリア内戦において主導的な役割を担ったのは、国家の意向に沿いつつ自発的に活動する官制NGOに似た民兵だった。それらは2013年頃には「人民防衛諸集団」(majmu‘a al-difa‘ al-sha‘bi)と総称されるようになっていたが、2016年頃に入ると「予備部隊」(al-quwat al-radifa)と呼ばれるようになった。この名称変更は、内戦下での民兵の役割変化に伴うもので、人民防衛諸集団(と呼ばれていた時期)の主な任務は、軍の後方支援、市街地の警護、デモ弾圧などだったのに対し、予備部隊は、武装が強化され、最前線での戦闘に参加した。人民防衛諸集団、ないしは予備部隊に含まれる主な組織は表2の通りである。
表2 主な人民防衛諸組織、予備部隊
こうした民兵に関しては、反体制系メディアを中心に「シャッビーハのダミー団体」、「シャッビーハに従う悪党」(Orient Net, February 6, 2013)などと批判的に紹介されることが多い。事実、表2に列記した民兵のうち、国防隊は、アサド大統領の甥のハラール・アサドが設立を主導し、ハラール・アサドの息子で「ビジネスマン」のスライマーン・アサドやラーミー・マフルーフらが資金供与を行ったと言われる。またジャブラーウィー大隊は「ブスターンの兵」と呼ばれ、マフルーフが監督しているとされる。ブスターンとはマフルーフが代表を務めるブスターン慈善協会のことである。さらに、沿岸の盾部隊は共和国護衛隊、祖国の砦部隊は軍事情報局のもとで活動しており、国家の直接管理を受けている。
しかし、民兵に参加した社会成員は、強制的に徴用されたのではなく、自発的に参加していた。この自発性の背景には、民兵に所属すると報酬が得られること、民兵に参加することで、国家との良好な関係を築き、社会的、政治的機会を得る、といった動機があったと言えるかもしれない。だが同時に、彼らは、自身と家族の生命、そして自身が暮らす地域コミュニティが武力紛争や経済制裁によって危機に晒されるなか、存亡をかけてシリア内戦を乗り切ろうとする国家と自らを重ね合わせて、社会に対する国家の支配のありようを度外視して、民兵に身を投じていったと考えることもできる。
以上、H・アサド前政権末期からB・アサド政権を経て、シリア内戦が発生、深刻化したなかで生じた国家社会関係の変化について見てきたが、その内容を約言すると以下の通りである。H・アサド前政権末期になり「常態化した非常時」が劣化、これと合わせて国家コーポラティズムが機能不全をきたし始めると、国家は、NGOの活動を奨励するなどして社会との関係の再編を模索し、「第三層」を創出することで「権力の二層構造」を維持・強化しようとした。シリア内戦によって、国家社会関係の希薄化が顕著となったが、その一方で両者間の親和化という現象も生じた。そのカギを握ったのが、武力紛争を勝ち抜くための暴力装置を補完した民兵であり、そこでは社会成員の自発的な参加が観察された。
注
- なおBBC, January 24, 2010は1,500団体、Syria-News.com, November 11, 2007は1,600団体と推計している。
- 「第三層」については青山[2012b: 43-45]を参照。
- これらの活動の詳細については「シリア・アラブの春顛末期」を参照。
- シリア内戦の原因、経緯、そして結果については青山[2017a]を参照。
参考文献
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- 青山弘之[2012c]「シリアのNGO:権威主義のための市民社会建設に向けた試み」『国際情勢紀要』82号:183-202。
- 青山弘之[2017a]『シリア情勢:終わらない人道危機』岩波新書、岩波書店。
- 青山弘之[2017b]「シリアの親政権民兵」『中東研究』(530):22-44。
- 青山弘之・末近浩太[2009]『現代シリア・レバノンの政治構造』(アジア経済研究所叢書5)岩波書店。
- 国連人道問題調整事務所(UNOCHA)ホームページ
- 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)ホームページ
- シリア・アラブの春顛末期:最新シリア情勢
- 『世界大百科事典』[1988]平凡社。
- 武内進一[2009]「政権に使われる民兵:現代アフリカの紛争と国家の特質」『年報政治学』60巻(2):108-128。
- AFP (Agence France Presse)
- BBC (British Broadcasting Cooperation)
- DP-News.com
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- Orient Net
- SANA(Syria Arab News Agency)
- Syria-News.com
- al-Thawra