【九州三国志】相良氏の起源と展開について!歴史的背景と検討の必要性
相良氏は、藤原南家の流れをくむ工藤氏の庶流に端を発するとされますが、その起源については複数の説があり、一定の議論を呼んでいます。
『求麻外史』では工藤維兼を祖とし、『寛政重脩諸家譜』ではその孫である工藤周頼が遠江国相良荘に住んだことから相良を名乗ったとされています。
ただし、周頼に子がいなかったため、伊東祐時の孫である光頼が養子として迎えられました。
これにより、相良氏は伊東氏とも近縁関係を持つこととなります。
太田亮の『姓氏家系大辞典』は、相良氏系図に混乱が見られると指摘しているのです。
初期系図の人名が他の藤原南家系図に見られないことや、世代数や時代的な矛盾が挙げられます。
この背景には、光頼が伊東氏からの養子であったことが影響している可能性があるとされているのです。
また、『新撰事蹟通考』では、相良氏が鎮西伊佐氏や橘氏と関連し、遠江国に移住した可能性も示唆されています。
しかし、近世に作成された系図には政治的意図が含まれている可能性があるため、その信憑性には慎重な検討が必要です。
治承4年(1180年)、源頼朝の平氏追討の動きに対し、当時の相良荘司頼景は平氏方として活動していましたが、後に鎌倉幕府に仕えるようになりました。
建久4年(1193年)、頼景は肥後国球磨郡多良木荘を所領として与えられたとされますが、追放されたとする説もあります。
頼景は多良木荘に下向し、その後鎌倉に戻り将軍頼朝に仕えることで、再び所領を与えられました。
頼景の嫡男である長頼は遠江相良荘に生まれ、多良木荘の支配を受け継いだのです。
その後、鎌倉幕府の命により人吉荘に下向し、矢瀬氏を滅ぼして人吉城を築きました。この功績により、球磨郡人吉荘の地頭職を与えられました。
一族は多良木荘を中心とする上相良氏、人吉荘を中心とする下相良氏、そして遠江相良氏に分かれていきます。
元弘の動乱では、相良氏一族は一致して宮方(南朝)に参じましたが、南北朝の内乱が始まると上相良氏と下相良氏は対立しました。
上相良氏の経頼は南朝方、下相良氏の頼広・定頼父子は北朝方に属し、それぞれ国人一揆を形成して抗争を繰り広げたのです。
この時期の相良氏は、南北両勢力を利用して自らの支配権拡大を図りつつ、勢力を保ちました。
相良氏の歴史には、多くの矛盾や不確定要素が含まれており、一次史料の不足や後世の系図に基づく創作の可能性が問題視されています。
鎌倉時代や南北朝時代を通じて重要な役割を果たした相良氏の実態を明らかにするためには、さらなる史料研究と系図の再検討が求められます。
その中で、政治的意図や地域的背景を考慮した総合的なアプローチが重要となるでしょう。