Yahoo!ニュース

日本人、在日コリアン、ミックスルーツの少女たち――「NIKE」PR動画に見る今ここのリアルと可能性

韓東賢日本映画大学教員(社会学)
写真はいずれもNIKEのPR動画から(筆者によるスクリーンショット)

■在日コリアン女性たちの涙

 「動かしつづける。自分を。未来を。 The Future Isn’t Waiting.」と題したPR動画がYouTubeで公開されたのは11月27日。私がそれを知ったのは翌日、普段は稼働していない高校同窓会のグループLINEを通じてのことだ。それはこの動画の主人公3人のうちの1人が某地方の朝鮮中学校に在籍する女子生徒だからであり、私が東京朝鮮高校の卒業生だからだ。動画のリンクは、「〇〇朝鮮学校の子らしいよ、素晴らしい!」というコメント付きで流れてきた。

 説明には、「アスリートのリアルな実体験に基づいたストーリー。3人のサッカー少女が、スポーツを通して、日々の苦悩や葛藤を乗り越え、自分たちの未来を動かしつづける」とある。ひとことでいえば、自分の存在と居場所――アイデンティティ――について悩む10代の少女たちが、サッカーというスポーツを通じて自分らしく生きるための一歩を踏み出す、というストーリーだ。

 言ってしまえばたったそれだけの2分の短い動画なのに、私の友人、とくに在日コリアン女性はほぼ全員これを見て泣いたという。ネットでは称賛や感動の声があがる一方で、日本社会はこんなに差別的ではないといった反発の声もあふれている。繰り返すが、たったこれだけの動画なのに、だ。

■社会的なものと個人的なもの

 実は私も泣いたうちの1人だ。同窓会グループLINEで情報が回ってきたことが示すように、NIKEという大企業の商業的な広告というメディアが在日コリアンを明示的に取り上げたことの意味は小さくないが、もちろんそれだけではない。以下、動画から読み取れることからもう少し考えてみたい。

 私が思うこの動画のポイントは、今ここ日本社会で生きる、異なる社会的属性を持つ3人の少女のリアリティ――その差異と共通性――をとらえようとしたところにある。ひとりは、親とのすれ違いや先生の無理解のなか、学校でのいじめやそこからの逃避であるはずの動画投稿サイトでもネガティブなコメントに傷ついているおそらく日本人の少女。2人目は、朝鮮学校に通いながら周囲の抑圧を感じ、新たな環境を模索して転校するが結局そこでも周囲の目がプレッシャーになってしまう在日コリアンの少女。3人目は、おそらく黒人系の父とアジア系の母(日本人?)と思われる両親のもとに生まれ、学校では肌の色や髪など見た目の違いから好奇の目を向けられているミックスルーツの少女。

 見えてくるのは、まずはこの社会が多様であるということ。またこの社会には同調圧力や無理解が満ちていて、少女たちは抑圧を受けたり孤立しやすい存在であるということ――在日コリアンやミックスルーツであるならなおさら、いや日本人であっても、たとえば女子がサッカーをするのはまだまだ大変だということ。さらにそれぞれの社会的属性により苦悩や葛藤の背景は異なっていても、今ここでサッカーをしているひとりひとりの少女にとってそれは等しく個人の苦悩や葛藤として帰結し、だからこそ同じサッカーを通じてつながりそれを打開できるかもしれないということ。その可能性が示されている。

■「インターセクショナリティ」への意識

 改めてまとめると、2分間という尺のなかで短いモノローグといくつかのカットでそれぞれのプレッシャーの文脈を描きわけることで、それぞれ異なったかたちで経験されるインターセクショナルなものとしての抑圧や差別を示すと同時に、サッカーをする10代の少女という共通項のもと、それがアイデンティティの苦悩と葛藤という個々人の経験に等しく帰結するということを見せていて、私はそこに感心した。

 「インターセクショナリティ」(intersectionality)とは、様々な差別や抑圧は「交差」(intersect)しているという考え方で、近年のフェミニズムや、最近だととくにBLM運動でも重要な視点として取り上げられた。ひとことで言うと、女性差別と言っても、日本人女性の経験と在日コリアン女性、または黒人女性、ミックスルーツの女性の経験はそれぞれ異なっており、たとえばひとりの在日コリアン女性にとって抑圧や差別は女性差別と民族差別が交差したひとつのものとして経験されるという考え方だ。

 この動画は、おそらく差別や抑圧のこのようなインターセクショナリティを意識しつつ、異なった属性と経験を持つマジョリティとマイノリティ、またはマイノリティ同士であっても、経験を共有して抑圧を打破していける可能性を示すが、その道具立てがサッカーになっているところが、やはりスポーツ用品メーカーとしての「優れた広告」だということなのだろう(つまりその道具立てが必ずしもサッカーをはじめとしたスポーツである必要はない)。大坂なおみ選手や永里優季選手といった女性アスリートの扱いも巧みで、マイノリティにとってのロールモデルやレプリゼンテーション(自分と同じ属性の人がメディアで表象されること)の重要性も改めて感じさせられた。

■制服、転校、名前――在日コリアンの少女に着目した補足

画像

 私の立場から言えることとして、在日コリアン少女の表象について少し補足したい。短い映像のなかにかなり細かい文脈が織り込まれているように思うので、以下、興味がある人は読んでほしい。

 「私、浮いているのかな」というモノローグのところで、妹らしき子と一緒に通学するシーンで着ていたのは、朝鮮学校の「チマ・チョゴリ制服」だ。1960年代から朝鮮学校中高級部の女子制服となったが90年代に制服姿の女子生徒が狙われるヘイトクライムが相次ぎ、1999年から通学時はブレザーになった(この制服については拙著に詳しい)。こうして現在、町なかで見かけることはほとんどないため、着用は少女の存在と置かれた状況を視覚的に示すための演出だろう。そう考えると、あの制服を着て歩きながら周囲の視線を気にする彼女の姿は、在日コリアン、ひいては朝鮮学校への日本社会の視線、抑圧を表していると言えなくもない。

 大家族かつ多少大げさすぎる在日コリアン的な食卓での「このままでいいのかな」というモノローグ(これはコミュニティの閉そく感や息苦しさの表現でもあるだろう)を経て、ひとりスマホで「在日」についての記事を読み悩んでいた彼女は、おそらく自分のやりたいこと(サッカー?)のため、朝鮮学校から転校する(それは同時に、それまでの環境、生き方が彼女の目標にとって不利な状況をもたらすかもしれないことを暗示してもいる)。

 転校先で「みんなに好かれなきゃ」というモノローグを経て、彼女が身につけていたのは背中に日本名が書かれたユニフォームだった。だが苦悩や葛藤を乗り越えて一歩踏み出していこうとする終盤で、そのユニフォームには「KIM」というおそらく彼女の民族名がつけ加えられる。そこからつながっていく全体としての最後のフレーズは、「いつか誰もがありのままに生きられる世界になるって?でも、そんなの待ってられないよ」。在日コリアンの歴史的経緯と現状を踏まえると、前述したカットの意味は重く、象徴的だ。

画像

■補足の、さらに蛇足としてのひとりごと

 補足として前項を書いたものの、「たったそれだけの動画」なのに私の友人たちが泣いたのも、また「たったそれだけの動画」なのにネット上で激しい攻撃にさらされているのも、おそらくこの部分――前者にとっては細かいリアルな文脈が織り込まれ、一方でそれが後者にとっては象徴的な記号になっていること――が大きいのではないだろうか。そう思うと引き裂かれそうになる気持ちを整理しながら、何よりも出演した3人の少女と、出演していなくても動画を見て自分がここにいると感じたすべての少女たち、ひいてはすべての人々の幸せを切実に願っている。そして、そのための社会を作っていく責任も感じている。

日本映画大学教員(社会学)

ハン・トンヒョン 1968年東京生まれ。専門はネイションとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンのことを中心に日本の多文化状況。韓国エンタメにも関心。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィ)』(双風舎,2006.電子版はPitch Communications,2015)、共著に『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(2022,有斐閣)、『韓国映画・ドラマ──わたしたちのおしゃべりの記録 2014~2020』(2021,駒草出版)、『平成史【完全版】』(河出書房新社,2019)など。

韓東賢の最近の記事