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「試合が続くからさ……」内田篤人が引退直前に気にしていたこと

了戒美子ライター・ジャーナリスト
G大阪戦でプレーするキャプテンマークを巻いた内田篤人(写真:千葉格)

 内田篤人が、プロサッカー選手としての現役を退いた。23日、カシマスタジアムで開催されたG大阪戦終了後にはスタジアムで引退セレモニーが行われ、ファン・サポーターに別れを告げた。翌24日にはオンラインで記者会見を行い、約70分間記者からの質問に答えた。鹿島アントラーズとの契約自体は8月31日まで残るものの事実上、選手としての活動は終了。内田はすでに新たな一歩を踏み出している。

何より気になるのは、仲間たちのこと

 シーズン途中ではあるが本人が契約解除を申し出て、クラブがそれを受け入れる形での引退となった。異例かつ突発的な状況の中、ラストマッチとなるG大阪戦を迎えるにあたって、内田が何よりも気にかけていたのがチームメイトたちのことだった。今年は新型コロナウイルス流行による中断期を経たため、Jリーグは変則的な日程が組まれている。8月はルヴァン杯も含め9試合が行われる過密日程。暑さも厳しく、戦うためには心身ともにしっかりとしたリカバリと準備が必要だ。そんな仲間たちに、少しでも迷惑をかけたくないのだと、先週のある日明かしている。

「本当はできればガンバ戦試合当日の、試合メンバー発表の時とかに同時に発表してほしいんだよね(発表から引退までの時間をできるだけ短くすることでチームへの影響を最小限にしたいため)。試合後にスタジアムで会見とかコメントするにしても選手たちはもう帰宅させちゃってほしい。疲れてるし、すぐ次の試合があるからさ。ってクラブにはお願いしてみたんだけど」

17年夏、シャルケでも退団セレモニー

 内田はできるだけあっさりした発表して欲しい、そうクラブには伝えたのだそうだ。だが、鹿島としては内田の引退をそんな風に済ませるわけにいかない。新型コロナ対策で入場者数は5000人までに制限せざるを得ない。それでも、クラブはできる限り盛大に送り出したいし、ファン・サポーターだって見届けたいものだ。チームメイトたちだって、同じ気持ちのはずだ。結局、試合後に行われたセレモニーは、チームメイトたちは当然ながら帰宅せず、ベンチ裏のコンコースから静かに見守っていた。中には内田が尊敬する小笠原満男らOBの姿もあった。

 かつて2010年から7シーズン在籍したドイツブンデスリーガのシャルケ04でもそうだった。2017年夏、ウニオン・ベルリンへの移籍が決まると、シャルケのクラブスタッフが「セレモニーをしないとクラブがファンに怒られる」からと、日程を調整し始めた。結局ウニオンが、シャルケの本拠地近くのデュッセルドルフで試合を行う日に、ちょうどシャルケもホームで試合を行っているという奇跡の1日があり、移籍後ではあるがうまくセレモニーを行うことができた、ということがあった。シャルケでも鹿島でも、愛され惜しまれながら送り出されたのだった。

指揮官も心を動かされた

 今回、引退するとの報告に、指揮官も驚いていた、と内田は言う。

「ザーゴ(監督)はさ、ガンバ戦で先発させるっていうんだよ。でもオレそういう気遣いやめてくれって言った。まあでも最終的にはザーゴが決めることだから、先発かベンチか、もしかしたらベンチ外かわからないけど」

 内田は今季リーグ戦では再開初戦となった7月4日の川崎フロンターレ戦で先発し60分までプレー。8月8日の第9節鳥栖戦でベンチ入りするも出場はなく、G大阪戦までの合計9試合で出場なし。ルヴァン杯では、8月12日の清水戦で先発したが69分に退いている。ラストマッチだからという理由で先発、ということに無理があるのは自身が一番よくわかっている。

 G大阪戦では右SBで先発した広瀬陸斗の負傷に伴い16分から出場した。試合終了間際には同点に追いつくクロスを上げるピッチを走りきったが、間違いなく満身創痍でのプレーだった。ザーゴ監督は涙ながらに「彼がどれだけこのクラブ、サポーターに愛されている人か分かる。彼が今後歩む人生に、我々にもたらした幸せ以上のものがあることを祈ります」と試合後のインタビューで答えた。今季就任したばかりで、わずか半年強の付き合いとは思えない、心のこもったコメントだった。内田は、試合翌日のオンライン記者会見で広瀬の負傷について「結構ひどそうで心配」と気づかった。最後までチームメイトのことを思っていた。

思い描いていた引退とは

 17年末に鹿島復帰を決めるにあたって、内田はこんなことを言っている。

「オレのことなんて知ってる人がほとんどいない中で引退していくのは嫌だなって。ファンに見てもらったり、友人に囲まれている中で引退したい」(拙著「内田篤人 悲痛と希望の3144日」より)

 17年夏にシャルケからウニオンに移籍したもののウニオンで結果が出せず、長引く負傷も癒えない。あと一回でも大怪我をしてしまえば引退に追い込まれるだろうという状況で、苦しみながらもロシアW杯を目指していた時期、どのように引退するかを見据えての鹿島復帰でもあった。

 32歳での引退には一抹の寂しさも残る。だが、そんな内田の言葉を思い出すと、鹿島でチームメイトやファン・サポーターに見守られながら選手生命を終えられたことに、勝手ながらすこし安堵もしている。

ライター・ジャーナリスト

1975年埼玉県生まれ。岡山、神奈川、ブリュッセル、大阪などで育ち、98年日本女子大学文学部史学科卒業。01年サッカー取材を、03年U-20W杯UAE大会取材をきっかけに執筆をスタートさせた。サッカーW杯4大会、夏季五輪3大会を現地取材。11年3月11日からドイツ・デュッセルドルフ在住。近著に「内田篤人 悲痛と希望の3144日」がある。

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