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徳川家康だけではなかった。愛人問題で苦しんだ井伊直政

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
彦根駅前の井伊直政像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」は、徳川家康がお手付きをする場面が印象的だった。実は家康だけではなく、家臣の井伊直政も愛人問題で苦しんだので、紹介しておこう。

 直政は家康の重臣の1人で、「徳川四天王」(ほかは酒井忠次・本多忠勝・榊原康政)として名を連ねていた。それゆえ、直政は妻として、松平康親の娘で、のちに家康の養女となった唐梅院を迎えた。いかに、家康が直政に厚い信頼を寄せていたかがわかる。

 天正18年(1590)、直政と唐梅院との間に誕生したのが直勝である。慶長7年(1602)に直政が病没すると、直勝が井伊家の家督を継承し、名を直継と改めた(のちに、再び直勝に名を改めた)。直勝は、2代目の彦根藩主となった。

 ところが、同年には直政の次男・直孝も誕生していた。直孝の母・阿古は、松平康親の配下にあった印具徳右衛門の娘だったといわれている。阿古は唐梅院が輿入れした際、奥方付きの侍女として、井伊家にやって来た。つまり、直政は侍女にお手付きをしたということになろう。

 直政は妻を恐れ、阿古はもとより子の直孝を隠したという。直政は恐妻家だった。一説によると、阿古は自分の命を擲って、子の直孝を認知させたという。そこまでされては、さすがの直政も直孝を我が子として認めざるを得なくなった。

 しかし、いかに直孝が直政の実子として認知されたとはいえ、唐梅院に対する憚りがあった。幼少期の直孝は、井伊家領の上野国安中の北野寺(群馬県安中市)に預けられ、養育されたという。

 したがって、直政が直孝と初めて対面したのは、関ヶ原合戦の翌年の慶長6年(1601)だったといわれている。その翌年、直政が亡くなり、直勝が井伊家の家督を継承したのは、先述したとおりである。

 その後の直勝と直孝の生涯は、対照的だった。直勝は井伊家の家督を継いだものの、器量がなかったので彦根藩主を更迭され、上野国安中藩3万石を分知された。直孝は、そのまま井伊家の家督と彦根藩15万石を引き継いだのである。

 正室の子・直勝に器量がなかったのは皮肉な話だが、その後の直勝は家督を子の直好に譲り、寛文2年(1662)に亡くなった。万治2年(1659)に亡くなった直孝よりも長命だったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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