樋口尚文の千夜千本 第200夜 『国葬の日』(大島新監督)
「馴致された顔」が炙り出す日本のフシギ
大島新監督が安倍晋三の「国葬の日」を全国10か所で記録して一本の映画にするという話を聞いて、それはぜひ観てみたいと思った。そこで目覚ましい何かがキャッチされるかもしれないし、あるいは全く何ごとも起こらないかもしれない。けれどもいずれにしてもそこには確実に現在の日本をめぐる何かが映し出されているはずだから、どういうものが出来上がろうと楽しみだった。
はたしてつなぎ合わされた全国の「国葬の日」の映像には、安倍のことを「大統領」と呼ぶトホホな政治無関心青年から辺野古で安倍への峻烈な怒りを露わにする筋金入りのシニアまで、実にさまざまな「その日の顔」が去来する。そこで改めて思うのは、ここに登場する顔、顔、それらのほとんどが「馴致された顔」、たかをくくった顔であることだ。安倍銃撃直後の選挙で自民党は大勝したが、それからほどなく実施された「国葬の是非」を問う世論調査では6割の人が反対を表明している。その6割が「国葬に反対」以上の「自分が社会を変える」という意識のもと全員選挙に行けば、たやすく国政は変わろうというのに、なぜかそうはならない。
それがなぜか、ということの答えが『国葬の日』を観ているとわかってくるような気がする。しばしばインタビュアーの大島新監督が「国葬が国民の分断を進行させている」と語るが、ここで見えてくるのは分断の図にとどまらず、その分断されたいくつかのクラスタをまたいでフワッとそれを覆っている諦めと現状肯定の感覚である。ひとことで言えば、そこに欠けているのは生きることへの切実さ(もっと言えば殺気)であって、たまさかそれを極私的な事情で沸騰させた例外者が山上徹也だった。だが、人は別に山上のようにハードに人生を賭してまで事を起こさずとも、ごく静かに権利を行使するだけで社会を変革できるのだ。それなのに、なぜかそのことに人々は気づかない。もちろんそれに気づかせないことが政権にとって好都合であるわけで、人びとはさまざまな情報やら教育やらですっかり馴致されてしまっている。
そんなどこか全て人ごとのような本気のなさが、『国葬の日』には充満している。かつて国家に追われていた足立正生が、あいかわらずの反骨ぶりで山上徹也を描いた劇映画を「国葬の日」にぶつけてみせたのが、わずかに威勢のいい場面であった。実は私もこの初上映に駆けつけたのだが、何か妨害のアクシデントが起こるのではと用心して出口のそばに陣取っていた。ところが蓋を開けると全く何ごとも起こらなかった。これには足立監督も安堵しながら、一方でちょっと物足りなかったのではないか。そんな感じがはしなくも映像から汲み取れる。
かつて足立とゆかり深き大島渚の『日本の夜と霧』は自民党の後の宰相経験者から松竹にクレームの電話が入って上映打ち切りになったというのに、今回の足立作品については徹底して無視を決め込むことで「問題化」を避けているようだ。つまり「相手にするな。放っておけ」ということであって(『日本の夜と霧』の頃は大衆的で大規模な変革のエネルギーの興奮さめやらぬ季節であった)、映画の向こうにいる国民の政治への当事者意識と「社会を変える」という殺気が失われたことを物語っていよう。
要は何もかもなめられているということなのだが、にもかかわらず自分ふぜいが何をやっても社会は変わらないという諦めと微温湯的な現状肯定ぶりが、さまざまな顔を通して見えてくるのである。人びとは岸田内閣のだめさ加減を辛辣に指摘し、内閣支持率もどんどん低下しているが、なぜそれが山上のようなかたちではない「世直し」に直結しないのか、『国葬の日』はそのいささかフシギな国民性を浮き彫りにした。この戦慄すべき控えめさ、大人しさはいったい何なのか。