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【先取り「どうする家康」】松平家を復活させた、徳川家康の祖父・松平清康と花倉の乱

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまる。今回はドラマの内容を先取りすべく、松平家を復活させた徳川家康の祖父・松平清康と花倉の乱を取り上げることにしたい。

 松平信忠の没後、家督を継いだのが清康である。清康は、永正8年(1511)に誕生した。後世の記録によると、清康は弓矢の達人である一方、心優しく慈悲深い人物だったといわれ、松平氏の版図拡大に邁進した。

 大永4年(1524。大永6年説もある)、清康は岡崎松平氏の山中城(愛知県岡崎市)を攻略すると、岡崎城(同岡崎市)を築城して安祥城から移った。享禄2年(1529)には尾島城(愛知県西尾市)を攻め落とし、三河西部に勢力基盤を築いたのである。

 同年、清康は三河牧野氏の今橋城(吉田城)を攻め小落とすと、渥美郡田原(愛知県田原市)の戸田氏を降伏に追い込んだ。清康の威勢を恐れた東三河国人衆は、次々と軍門に降ったので、ますます版図が拡大した。

 清康は宇利城(愛知県新城市)の熊谷氏を降伏させると、悲願の三河国統一を実現した。翌享禄3年(1530)、清康は岩崎城(愛知県日進市)、品野城(同瀬戸市)を攻め落とし、尾張支配までも目論んだのである。

 天文5年(1536)、駿河・遠江の今川氏は、当主の今川氏輝が亡くなると、家督をめぐる争いが勃発した(花倉の乱)。氏輝には実子がなく、後継者候補は弟の義元と玄広恵探に絞られた。

 義元は幼少期に出家し、梅岳承芳と名乗り、今川氏の政僧・太原雪斎のもとで学んでいた。恵探も幼い頃に出家し、遍照光寺(静岡県藤枝市)の住持となっていた。

 これまで花倉の乱は、義元を擁立する寿桂尼が太原雪斎と結託し、福島氏が擁立する玄広恵探を打倒したとされてきた。

 しかし、『高白斎記』によると、寿桂尼は玄広恵探に加担したように読めるが、乱後、寿桂尼が義元から何の処罰も受けていないので、恵探とともに義元に対抗したとは考えにくい。

 つまり、従来説のとおり、寿桂尼は義元側に終始あったと考えてよい。また、天文5年(1536)、寿桂尼が太原雪斎とともに義元の家督相続を幕府に申請し、すでに許可を得ていた(「岡部文書」)。

 恵探派は久能山(静岡市駿河区)で挙兵し、駿河府中の今川館(静岡市葵区)を襲撃したが、失敗に終わった。やがて、恵探は花倉城を拠点として抵抗を試みたので、遠江などで味方する勢力もあらわれた。ところが、義元は後北条氏の支援も得て、恵探の籠城する花倉城を攻撃した。

 恵探は逃亡するが、瀬戸谷の普門寺(静岡県藤枝市)で自ら命を絶った。こうして義元は、今川家の家督を継承したのである。義元が今川家の当主になったことは、清康にも大きく影響したのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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