【その後の鎌倉殿の13人】後鳥羽上皇の第3皇子を騙った男とその仲間たちの末路
嘉禄3年(1227)3月上旬、隠岐に流された後鳥羽上皇の第3皇子と自称する者が鎌倉に現れます。その者の仲間は、4・5人ほど。おかしな事を言う奴として、彼らは由比ヶ浜辺りの民家で、波多野経朝により、捕縛。北条家の被官による尋問により、上皇の第3皇子ではなく、伊豆前司(亡き源仲綱か)の家来で、百姓であることが判明するのです(3月9日)。
それから10日経った3月19日、幕府において、上皇の第3皇子を自称した者とその仲間たちをどうするかの評議がありました。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)は、彼らのことを「謀反人」と記載しています。「奸謀を企んでいた」とありますが、4・5人で本当に「謀反」をしようとしたのでしょうか。
筆者の抱く疑問は、当時の幕府関係者も持っていたようで「彼らの計画は信用できない」「大したことも言っていない」「彼らは物狂い(乱心者)だ」との発言が評議で出ています。しかし、完全無罪という訳にはいきませんでした。「幕府が治めている地域からは追い出そう」(追放処分)、「民間の野心というものは厳しく取り締まるべきだ。斬罪に処しては」という「強硬意見」も出てくるのです。
正式な判決は、北条政子の3回忌後ということになりました。「謀反人」を捕らえた波多野経朝は、幕府への忠義ありということで、美作国(岡山県東北部)の一村を与えられます。同年7月11日に政子3回忌の法事が行われました。しかし、法事が過ぎても、「謀反人」たちがどうなったのか、『吾妻鏡』には何の記載もありません。おそらく、追放にでもなったのではないでしょうか。