「ブラック企業」は人種差別か?
「ブラック企業」は人種差別だという意見がネットをにぎわせている。昨年流行語大賞トップ10を受賞するなど、私はこの言葉の普及に深くかかわった経緯がある。こうした意見について、経過や事実関係を踏まえて、私なりの見解を述べたいと思う。
そもそも「ブラック企業」とは?
「ブラック企業」という言葉は、もともとネット上のスラング(悪口)であり、2000年代後半に、ネットユーザーが会社の劣悪な労働条件を非難するために使い始めた言葉である 。しかし、当時は定義が判然とせず、なぜこの言葉が世の中に広がったのか、誰にも理解されていなかった。
私は2006年からNPO法人POSSEを運営し、これまで数千件の若者からの労働相談に関わってきた。その経験から、この「ブラック企業」という言葉の背景には、「正社員雇用」の劣化があると直感的に理解した。当時、新卒正社員から「長時間労働で鬱病になった」とか「パワーハラスメントで退職に追い込まれる」といった事案が殺到していたからだ。
せっかく正社員になっても働き続けることができず、使い潰されて身体を壊し、キャリアを台無しにしてしまう。これは大変恐ろしいことである。だから、就職活動をする大学生の間でも「ブラック企業」という言葉が広がっていった。
なぜ「ネットスラング」だったのか
このように、「ブラック企業」とは正社員雇用の劣化を批判する言葉である。では、なぜそれが「ブラック」というネットスラングとして現れたのだろうか。
2000年代後半当時、世間では辞めてしまう若者に対し、むしろ「人間力が低くなった」、「やる気がないから離職率が高い」などとばかり言われていた。政府も対策を取らず、研究者も深刻にとらえていなかった。文科省は「厳しさを教えろ」とばかり声高に叫んでいた。
あるいは、パワハラの労働相談の増加は「若者の捉え方が変わったからだ(NHK)」という分析がされたり、鬱病の増加は「新型うつ(仮病)」の広がりが原因であると説明されていた。
だから、当事者たちはネットに「悪口」を書くしかなかったのである。こうした経緯が、本当は「正社員雇用の変化」として説明されるべき事実が、「ブラック」というスラングで表現されてしまった理由である。そこには人種差別があったのではなく、専門家の怠慢、行政の怠慢があったのであり、「ブラック」という言葉でしかこの問題が表現されなかったのは、不幸だというべきなのかもしれない。
私が2012年に執筆した『ブラック企業』(文春新書)は、この言葉の「発生の背景」を明らかにすることで、「ネット上の都市伝説」から、「ブラック企業」を労働問題・社会問題とした。2013年には流行語大賞トップ10を受賞した理由は、「この言葉の意味」、「社会的な背景」を明らかにしたからである。
現実に広がった「ブラック企業」という言葉の背景を分析し、問題提起をし続けることは、今なお研究者としてすべき価値のある仕事であると思う。
「ブラック企業」という言葉を使うべきか?
厚労省も現在では私の定義を受け入れ、「若者の「使い捨て」が疑われる企業」と表現している。「黒人差別」であるかどうかは別として、行政が「ブラック」というスラングをそのまま使うことは明らかに不適切だ。行政用語としては「若者の「使い捨て」が疑われる企業」というのは適切である。
また、海外での受け止められ方には特に注意が必要だ。日本とは異なる文化的文脈があるからだ。確かに、米国の方が「ブラック企業」と聞けば、黒人差別を想起する可能性がある(ただし、それはあくまで米国での話で、日本での話ではない)。
今後外国語に翻訳する場合は“dark business” と意訳するとか、 “black kigyou” とそのまま表記するのが適切であろう。私も国際学会や翻訳などの際に表記にいつも困っているが、試行錯誤しているところである。
一方、一般の人が日本で「ブラック企業」という言葉を使うことに、それほど過剰反応する必要があるのかには、強い疑問を持つ。もちろん、他の言葉でこの問題を論じられるようになる方が望ましいだろうが、すぐには難しい。それにエネルギーを費やすよりも、この気運を逃さずに「ブラック企業」による長時間労働、過労死・過労自殺を止めることの方がよっぽど大切であると思う。
「黒人差別だ」という批判の問題点
さらに続けよう。私は、「黒人差別だから使うな」という主張に強い違和感を覚える。
過労死、過労自殺、長時間に苦しむ労働者に、「言葉が適切ではない」という批判をする前に、やるべきことがあるのではないか? と思うからだ。端的にいって、この批判者は「どの立場」から、「何を目的」としてこういうことを言っているのだろう?
こういう「言葉の上での批評」は、社会学や社会思想において痛烈に批判されている(それはしばしば「知識人」の傲慢さの帰結であると捉えられる)。
例えば、「妻」という言葉がある。この言葉は、女性差別的な近代家族制度に深く組み込まれているために、社会学者や人権運動家の多くは、あえて使わない。「パートナー」とか「連れ合い」と言い換えるのが習わしだ。私自身、「妻」とか「家内」という言葉は普段使わない。
だが、こうした「言葉」に専門家がこだわるのは当然としても、一般人社会にとっての優先順位は低くて然るべきだ。非正規雇用で差別され、家庭内でDVを受ける女性にとっては、「言葉」の批評どころではない。もしみんなが「妻」を使わなくなったとしても、セクハラや女性労働者への差別がなくなるわけではない。むしろ「言葉」ばかりが争点になれば、現実の差別構造を軽視することにもつながりかねない。
だから、「言葉の批判」ばかりを繰り返す人は、本当は差別をなくすことに興味を持っていないのではないか、と学問的にも疑問が投げかけられてきたのである。
もちろんだからといって、「言葉」への批判がまったく無意味だというわけではない。現実の改善と結びつく「言葉の批判」はむしろ極めて有意義である。
だから、「言葉」への批判が現実の社会批判、社会を改善する取り組みに接合する方法をこそ、考えるべきなのだ。そして、これは意外と難しい作業なのである。