Yahoo!ニュース

名手・横山典弘が手繰り寄せた英国G1騎乗の奇跡的な経緯とは……

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
16年前の6月17日、英国のG1に挑戦した横山典弘騎乗のイングランディーレ

開催真っ只中のロイヤルアスコットに16年前に挑んだ馬

 6月7日の東京競馬場でJRA通算2万回の騎乗を勝利で飾った横山典弘。数々の名騎乗をみせてきた彼が、16年前の6月17日、イギリスの伝統的なG1で果敢にハナを切った。そこへ至るまでの経緯も奇跡的だったので、当時の遠征を振り返ってみよう。ちなみに私も当然、取材に赴いたのだが、当時はまだデジカメが普及する前の話。残念ながら自分で撮影した写真はほとんどないため、今回は当時の遠征スタッフの1人である清水友昭調教助手から提供していただいた。

イングランディーレ(清水友昭調教助手提供)
イングランディーレ(清水友昭調教助手提供)

 2004年6月5日、成田空港を飛び立ち、競馬発祥の地、イギリスへ向かったのは当時5歳のイングランディーレ(牡、美浦・清水美波厩舎)。直前に天皇賞(春)(G1)を制したこの馬に帯同したメンバーの1人に調教師の次男である清水友昭がいた。輸送に関し、彼は言った。

 「アンカレッジを経由したのですが、そこでこれまでにないほどイレ込んでしまいました」

 そこから先は前掻きを繰り返し、イギリスに着いた時には下に敷いていたゴムマットに穴が開くほどだった。同じく一緒に移動した厩務員の小泉弘は次のように語った。

 「移動中ずっとうるさかったので耳に外傷を負っていました」

英国でイングランディーレを挟み左から清水美波調教師、小泉厩務員、清水友昭調教助手(清水友昭調教助手提供)
英国でイングランディーレを挟み左から清水美波調教師、小泉厩務員、清水友昭調教助手(清水友昭調教助手提供)

 現在、イギリスでは皇室主催のロイヤルミーティングの真っ只中だが、16年前にイングランディーレが挑んだのもこの開催。中でも伝統の長距離戦・ゴールドカップだった。3200メートルの天皇賞(春)を逃げ切った勢いで、今度は約4000メートルの長丁場に挑んだのだ。

 そのために入厩したのは競馬の聖地・ニューマーケット。友昭はトレセン入りする前に訪れた経験があった。レース3日前の最終追い切りも彼が手綱を取った。

 「他の馬を気にしたので一発鞭を入れたらグンッと反応してくれました」

 良い追い切りが出来たと思った。レース前日にはあえてメンコ(耳覆い)を外して坂を上らせた。レースが近付いていると教えたのだ。それが良い方に出たのか、6月17日、レース当日のイングランディーレは「すごく落ち着いていた」と調教師の清水は感じた。その清水が笑いながら言った。

 「昔、私が住んでいた家の向かいがノリの家でした。ノリはいかにもヤンチャ坊主という感じでしたよ」

 “ノリ”とは、勿論、手綱を取る横山典弘だ。現在では百戦錬磨の彼だが、当時は36歳。「あまり早くジョッキールームに入ると緊張しちゃうから……」としばらく外で会話を続けた。その時、この日本のトップジョッキーが教えてくれたのが厩務員の小泉との関係だ。横山がデビュー戦で乗った馬の厩務員の弟が、イングランディーレの厩務員の小泉だと言うのだ。直前までそんな会話をした後、ジョッキールームに消えた横山だが、パドックに現れたのはどの騎手よりも早く「あれ?俺が一番乗り?」と緊張の面持ちで口にした。しかし、いざパートナーに跨ると堂々とした態度でふるまった。馬場入り後、スタンド前を行進するのはこの開催で義務化されていたが、それは日本で横山がいつもやっている事。大観衆の前をゆっくりと歩かせてから返し馬に移った。そして、ゲートが開いてからも“さすが”という手綱捌きを披露した。この日のためにオーナーがエルメスであつらえたという真新しい勝負服に身を包んだ横山は、初めての土地にも臆することなく、天皇賞を勝った時と同じように果敢にハナを切った。

逃げるイングランディーレ(左の鼻白)を映し出すアスコット競馬場の大型ヴィジョン(清水友昭調教助手提供)
逃げるイングランディーレ(左の鼻白)を映し出すアスコット競馬場の大型ヴィジョン(清水友昭調教助手提供)

厳しい結果も悲観せず

 エリザベス女王の前で逃げる競馬を披露した横山だが、レース後には次のように語った。

 「起伏が激しいのは分かっていたけど、横にもうねっているし、走りにくそうに何度も手前を変えていた」

 最後は失速し13頭立ての9着でゴールを通過すると、横山は誰よりも早く下馬し、優しい視線を送りながら共に戦った戦友の首筋をポンポンと叩いた。そして、1ケ月半前にはまさかロイヤルアスコットで乗る事になるとは考えてもみなかったと思えば、よく頑張ってくれたと笑顔で語った。

 そう。イングランディーレがイギリスへ遠征出来たのは先述したように直前に天皇賞(春)を制したから。テン乗りの横山が10番人気で単勝71倍のダークホースで大逃げを打ち、最後まで他馬を寄せ付けず。最終的に2着のゼンノロブロイに7馬身もの差をつけてゆうゆうとゴールへ飛び込んだからなのだ。その直後のイギリス挑戦。結果は出なかったが、シンデレラストーリーとしては十二分と言っても過言ではないご褒美だっただろう。

天皇賞を制した際のイングランディーレ(写真;山根英一/アフロ)
天皇賞を制した際のイングランディーレ(写真;山根英一/アフロ)

騎乗が決まった奇跡的な経緯

 ちなみに横山が天皇賞で乗る事になった経緯はほんのちょっとの偶然から。その直前に行われたある騎手の結婚披露宴に出席した彼は、同じくその宴に出席していた吉田照哉と千津オーナー夫妻から「天皇賞は何に乗るの?」と問われた。その時点で乗り馬が決まっていない事を伝えると「じゃ」という感じでイングランディーレの騎乗を依頼されたのだ。さて、こんな形の依頼を“ほんのちょっとの偶然”と記したが“偶然”だったのはあくまでも同じ披露宴に出席し、同じテーブルでそういう会話に発展した事、に対してである。横山が騎乗依頼を受けたのは、彼が一流のジョッキーだったから、であり、決して偶然ではない。だからこそ彼は2万回の騎乗を出来たのであり、現在2799もの勝ち鞍を積み重ねられたのである。記念の2800勝は時間の問題だが、果たしてそれが今週末なのか、ベテランの騎乗をテレビ画面越しに応援しよう。

2800勝に王手をかけている横山典弘。写真は3月に日経賞を優勝したミッキースワロー騎乗時のパドック
2800勝に王手をかけている横山典弘。写真は3月に日経賞を優勝したミッキースワロー騎乗時のパドック

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

平松さとしの最近の記事