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これは意外だった。徳川光圀が褒めていた石田三成の心意気

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
水戸光圀像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、ここまで石田三成が好人物のように描かれてきた。周知のとおり、後世に成った史料などでは、決して三成を良く書いていない。しかし、徳川光圀は、三成を忠臣として高く評価していたという。その点について、考えることにしよう。

 徳川光圀(1628~1700)は、水戸藩の第2代藩主である。その業績は多岐にわたるが、修史局の彰考館を設立し、『大日本史』を編纂したことは、あまりに有名である。

 『大日本史』は、朱子学の「大義名分論」に基づいて編纂された。大義名分論とは儒教思想を基本とし、君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序や礼節を重んじる考え方である。

 光圀が亡くなった翌年の元禄14年(1701)、『桃源遺事』という書物が刊行された。同書を編纂したのは光圀の家臣で、光圀の言動をまとめたものである。

 そこには、光圀の三成に関する、注目すべき見解が示されている。光圀による三成の評価を語る前に、明智光秀や真田信繁(幸村)の評価を取り上げておこう。

 光圀は天正10年(1582)6月の本能寺の変で、織田信長を自害に追い込んだ明智光秀を手厳しく非難した。儒教思想に基づけば、いかに光秀が信長を憎んでいたとはいえ、主君を殺すなどあり得なかったからである。

 ちなみに、主君殺しというのは、いかに下克上の気風があった戦国時代でも、決して褒められることはなかった。

 信繁は大坂の陣で、光圀の先祖の徳川家康と戦ったが、意外なことに高評価なのである。信繁は家康と敵対した頃から、「千子村正」という刀を常に身に付けていた。それには、もちろん理由があった。

 刀工の村正が作刀した刀は徳川家を祟るといわれていたので、信繁は「千子村正」を帯びることで、家康を呪詛しようとしたのである。とはいえ、この話が史実だったとは考えにくい。

 この話を知った光圀は、信繁の忠義の心を高く評価した。武士たる者は、信繁のようにあるべきと述べたという。いかに先祖の敵だったとはいえ、光圀は信繁の心意気に感激したのであろう。

 その考えもあって、光圀は同じく家康の敵だった三成を嫌いではないと述べていた。つまり、光圀は武士たる者が主君のために忠義を尽くすのは当然のことであって、仮に敵であっても憎むべきではないと述べる。

 そして、そのことについては、君臣ともに正しく理解すべきであると光圀は主張した。つまり、主君を思う三成は賞賛すべき存在であり、立場が違うかもしれないが、忠臣として評価すべきだと光圀はいう。

 光圀は「義公」と称され、儒学の思想を非常に重んじたので、それゆえの公平な評価かもしれない。ところが、それ以外の諸書による三成の評価はボロカスなので、その点については改めて紹介することにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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