140パウンド最強の男の命日に……
米国時間、10月9日はボクシング史上、140パウンド最強の男とも謳われるアーロン・プライアーの命日だ。彼が他界して今年で6年になる。
ラスベガス、ハリー・リード国際空港から車で北西に25分。およそ13.2kmドライブした地にあるジム「REAL BOXING」。この共同オーナーを務めるパーネル・ロチェル(59)を訪ねた。
私にとっては信じ難いキャリアの持ち主であったからだ。
2003年6月、私は<キング・オブ・ジュニアウエルター(現スーパーライト)>と謳われたプライアーと出会い、その後彼が亡くなる2016年10月まで取材を重ねた。
7人きょうだいの5番目として誕生し、母親は同じでも、父親が全て違う境遇。知的障がい児の烙印を押された小学生時代、アルコール依存症だった母親が子供たちに銃口を向けた過去、ボクシングジム内の片隅にベッドを置いてもらい、そこで生活した日々……等々、プライアーは想像を超えた修羅場を潜っていた。
1982年7月4日にWBAジュニアウエルター級チャンピオンだったプライアーに挑んだ故亀田昭雄との再会もセットした。※詳しく知りたい方は、拙著『神様のリング』(講談社)をご覧ください。
モントリオール五輪の代表候補選手だったプライアーは、シュガー・レイ・レナードとおよそ200ラウンドのスパーリングをこなし、互いに2度ずつダウンを奪い合っている。また、アマチュア時代にはトーマス・ハーンズとも公式戦で対戦し、ワンサイドの判定勝ちを収めた。
プロ転向後、プライアーはビッグマッチを希望したが、「危険過ぎる相手」として、敬遠され続けた。
1982年11月12日、WBAジュニアウエルター級タイトル6度目の防衛戦として、<ニカラグアの貴公子>アレクシス・アルゲリョ戦が決まる。4階級制覇を目指すアルゲリョとプライアーは、2万4000人収容のオレンジ・ボウル(NFLマイアミ・ドルフィンズのホームアリーナ)で対峙した。
そのジュニアウエルター級史上最大と呼んでいいメガ・ファイトの前に、両者のスパーリングパートナーに抜擢されたのがパーネル・ロチェルだった。
ロチェルは、1963年7月26日ジャマイカ、キングストン生まれ。12歳からアマチュア選手としてリングに上がった。
「私が幼かった頃のジャマイカには、ボクシングジムなんて無かった。近所にボクシングを教えてくれるおじさんが住んでいて、路上で習ったよ。アマでは40戦して38勝2敗。プロでは大したことがなかった。
1985年からアメリカに住んでいる。ジャマイカじゃチャンスが無かったのでね。プロになってからはメリーランドで練習することが多かった。
ある時、アルゲリョ戦に向けたプライアーがメリーランドに来ることになって、1週間同じジムで練習した。それで私も6ラウンドのスパーリングをやったんだ。パンチがあったし、気持ちの強さを感じた。スパーではラフな戦いはしなかったね。
その数週間後に、マイアミでキャンプを張っていたアルゲリョのチームにも呼ばれたよ。無論、プライアーもアルゲリョも私がメインのパートナーじゃない。数合わせでちょっと、って感じだ。アルゲリョはリーチが長かった。両者とスパーをしてみて、プライアーが勝つと思った。それはパワーの差だね」
現役時代マイアミに住んでいたロチェルだが、引退後はサンフランシスコで郵便局員として働き、トレーナーになる道を探した。ニューヨークを経て、1997年からラスベガスに居を構えている。「REAL BOXING」をオープンしたのは、およそ2年前。
「アルゲリョは2009年に他界したよね。自殺と報じられたが、言葉が無いよ。訃報を耳にした折は信じられなかった。そしてプライアーも亡くなったね。彼は色々問題を抱えていたようだが、ショックだったな。
今の私は、自分に出来ることを精一杯やるだけだ。チャンピオンを育てるのが夢。強いボクサーになるには、①自分を律してトレーニングに向かう姿勢 ②強い意志 ③どれだけ明確な目標を立てられるか が肝心だ。選手と一緒に、コツコツと勝ち星を目指していくよ」