承久の乱の捕虜を死罪から遠流にした北条泰時の決断の訳
承久の乱(1221年)に勝利した鎌倉幕府軍は、官軍に加勢した者を次々に捕縛していました(6月16日)。その捕虜のなかには、清水寺の住職・敬月法師もありました。敬月法師は「勇士」ではありませんでしたが、宮方の公卿・藤原範茂に従って、宇治に行ったので、幕府方は許し難しとして、敬月を捕えたのです。
その時、敬月は、一首の和歌を、幕府軍の総大将・北条泰時に贈ったといいます。その和歌は「勅ナレハ身ヲハ捨テキ武士ノヤソ宇治河ノ瀬ニタタネト」(天皇からの命令であるので、我が身を捨てて戦うべきでしょう、武士ならば。しかし私は、宇治までは行きましたが、川での戦には出ておりません)というものでした。
要は、私(敬月)は、参戦していませんよと、泰時に伝えたのです。和歌を見た泰時は、感心し「死罪」ではなく「遠流」にするよう命じました。参戦していないのならば、死罪にする必要はないと判断したのでしょう。同日、泰時は、鎌倉に使者を派遣。
それは、戦(承久の乱)が無事に終結したことを伝える使者でした。幕府軍の犠牲もありましたが、承久の乱はここに終結したのです。