読売新聞による朝日記者のシリア取材批判はメディアの自殺ー新聞が「報道の自由」を自ら捨てる愚行
読売新聞は31日付けで「朝日の複数記者、外務省が退避要請のシリア入国」との記事を配信したが、
と、まるで犯罪か不祥事のような書きぶりである*。これを受けて、ネット上では朝日新聞を批難する意見が書き込まれ、自民党の国会議員もツイッター上で疑問を呈した。だが、「退避勧告」は法的強制力はない。退避勧告に従わないことを問題視するような意図で記事を配信することは、「報道の自由」を新聞自らが捨て去る愚行であり、恥を知るべきである。
○強制力はないにもかかわらず、自主規制するメディア
「退避勧告」とは、外務省が国や地域ごとに発する危険情報であり、4段階ある中で最も高いレベルとなる。あくまでも「情報」にすぎず、法的拘束力をもって、その国や地域への渡航を禁じたり、処罰したりするものではない。だが、近年、「退避勧告」が発せられるのに呼応して、日本のマスコミが現場の記者に「撤退命令」を下すことが少なくない。昨年7月から8月にかけ、イスラエル軍が侵攻したパレスチナ自治区ガザについて、同7月18日に外務省は「退避勧告」を発令(現在は引き下げ)。これを受けて、日本のマスコミ関係者は、次々にガザから撤退していった。現場の記者たちは熱意をもって現地の状況を報じていたが、マスコミ上層部は万が一のリスクと責任問題化するのを嫌い、記者たちを撤退させたのである。そして、7月18日以降、現場に残ったのは私のようなフリーランスのジャーナリストのみとなってしまった。だが、報道は政策の決定にも大きな影響を与える。基本的な情報がなければ、国会での審議も難しい。とりわけ、紛争地での情報を得る上で、報道が果たす役割は非常に大きい。
○報道の自由を自ら捨てる新聞
今回の読売新聞の記事は、報道が持つ社会的な意義を新聞自らが貶め、憲法で保証された「報道の自由」を投げ捨てる愚行だ。「報道の自由」は、憲法21条の「表現の自由」の一環とされる。そしてメディアは、人々の「知る権利」を担うものとして、その社会的な役割が期待されている。
報道するためには、当然、取材しなくてはならないが、日本の判例においては「取材の自由は尊重される」(例:博多駅TVフィルム提出命令事件)とややグレーな扱いとなっている。取材の自由が保障されなくては、報道の自由はあり得ず、不当な判決とも言えるのだが、だからこそ、権力の介入に対し、メディア関係者は最大限の警戒心を持たなくてはならない。今回の読売新聞の報道に対し、早速、自民党の佐藤正久参議院議員が、
と疑問を呈しており、それに同調する投稿も少なくない。読んでの通り、佐藤議員は「退避勧告」が発令されている地域の取材を禁止すべきだとは書いてはいないが、稀代の悪法であり、国民の「知る権利」を踏みにじる特定秘密保護法を強行採決した安倍政権である。今後、ジャーナリストの取材活動にも口出ししてこない保証はない。そうした中で、新聞が自ら、取材活動を制限をすべきというような論調を誘導することに、報道に関わる者の端くれとして、筆者は強い憤りを感じる。
○メディアの自殺
今回の読売新聞の記事は、現場で取材する自社の記者への裏切りでもあるだろう。外務省は、2011年4月26日付けでシリア全土に「退避勧告」を発令したが、その後も読売新聞の記者も首都ダマスカスなど、シリアから記事を配信してきた(例えばこの記事など
現場で奮闘する記者を裏切り、メディアの取材活動をメディアが縛りをかけていく。これは「メディアの自殺」に他ならない。
*実際、この記事を掲載したlivedoorニュースでのカテゴリは「マスコミの不祥事・トラブル」であった。livedoor ニュースのセンスもまったく酷いものだ。