今から90年前は「七五三台風」が大暴れで「京浜一帯暗黒化す」
平年並みの台風
令和4年(2022年)の台風シーズン前半は台風の発生数が少なかったのですが、後半は一転して発生数が多くなり、現在までに24個発生しています(表1)。
ウェーク島近海を北上していた台風24号は、11月14日15時に熱帯低気圧に変わりましたし、日本の南の熱帯域には台風はおろか、台風の卵である熱帯低気圧も存在していません。
台風が上陸する気配は全くありませんが、過去には、11月に台風が上陸したことがあります。
遅い上陸台風
気象庁で用いている「台風の上陸」の定義は、「本州、四国、九州及び北海道の陸上に台風の中心(気圧の一番低い所)が達したもの」です。
沖縄本島など島の上を通過した場合は上陸とは数えていませんので、沖縄には定義上、台風は上陸しません。
気象庁ホームページに、上陸が遅い台風の一覧表があります。
これによると、一番遅く上陸した台風は、平成2年(1990年)11月30日に和歌山県白浜町の南に上陸した台風28号で、11月に上陸したのは、この台風だけです(表2)。
12月の上陸台風はありません。
11月以降に台風が上陸したのは、平成2年(1990年)の台風28号のみというのは、台風の統計をとり始めた昭和26年(1951年)以降の話です。
昭和25年(1950年)以前にも、11月以降に上陸した台風があったかどうかというのは難しい問題です。
気象庁では、台風の定義として北西太平洋(東経180度以西で南シナ海を含む)の熱帯低気圧のうち、最大風速が17.2メートル以上のものとしています。
そして、このような基準が適用された昭和26年(1951年)以降について、台風統計を行っています。
昭和25年(1950年)以前については、このような定義がなく、「この頃がこの台風の最盛期で、最大風速は10メートルであった」というように、今でいうと熱帯低気圧であるものまで台風と呼んでいました。
また、熱帯低気圧と温帯低気圧の区別がはっきりしておらず、天気図に前線を引くこともありませんでした。
このため、台風が温帯低気圧に変わるということは考えておらず、台風で発生したら、最後まで台風でした。
従って、当時、上陸として扱っている台風でも、現在の基準からみれば、上陸時にはすでに「熱帯低気圧」に衰えていたり、温帯低気圧に変わっていたりするものが含まれています。
また、逆に当時の乏しい観測貸料では、上陸した台風を見逃している場合も十分に考えられます。
以上のことを承知で古い資料、例えば昭和19年(1944年)に中央気象台が作った「日本颱風資料」や、昭和15年(1940年)から毎年、中央気象台(現在の気象庁)で作られている「台風経路図」などで調べると、4個の台風が11月、12月に上陸したことになっています。
明治25年(1892年)11月24日に東海地方に上陸した台風。
明治27年(1894年)12月10日に九州南部か11日に関東地方に上陸した台風。
昭和7年(1932年)11月15日に房総半島に上陸した台風。
昭和23年(1948年)11月19日に紀伊半島に上陸した台風。
このうち、最大の被害が発生したのは、今から90年前の、昭和7年(1932年)の台風です(図1)。
「七五三台風」と呼ばれた台風
昭和7年(1932年)11月7日にフィリピンの東海上で発生した台風は、ルソン島をかすめて北上した後、向きを北東に変え、発達しながら15日0時に千葉県房総半島に上陸しています(図2)。
子供の成長を祝う七五三の日である11月15日に上陸したことから、通称、「七五三台風」と呼ばれています。
中央気象台が毎月発行していた「気象要覧」によると、「中心から延びる不連続線」など、現在の基準ら見れば、上陸時には前線を伴っていた(温帯低気圧に変わっていた)と思えるような記述もあります。
ただ、当時は前線の概念は一般化しておらず、日本の天気図には前線が記入されていません。
「七五三台風」が、台風のまま上陸したのか、温帯低気圧に変わってから上陸したのかは、いまとなっては判別できませんが、大きな被害が発生したことだけは事実です。
「七五三台風」による被害
「七五三台風」により、最大風速は、横浜で毎秒36.3メートルを観測するなど、東海地方から関東地方の沿岸で30メートルを超えています。
また、伊豆半島や関東南部~福島県の太平洋側では、ところにより総雨量が200ミリを超える豪雨となって、死者・行方不明者257名という大きな被害が発生しています。
昭和7年(1932年)11月15日の朝日新聞朝刊でも七五三台風をおおきく扱っており、7面は全て台風関連記事でした(図3)。
その朝日新聞の記事の見出しは次のようなものでした。
5段抜きの見出し:13年振の猛台風 京浜一帯暗黒化す
風速実に21メートル 東海道線一時不通
4段抜きの見出し:市内の浸水1万戸
特急燕号続々止まる 鉄道の混乱状態
3段抜きの見出し:横浜で30戸埋没 3名惨死・多数重傷
烈風下の大火 静岡県元吉原村で200戸
皇族方御難行
東海道線不通の因
記録的な大台風
なお、ここで、「13年ぶり」というのは、大正8年(1919年)8月14日から16日に東シナ海を北上して、対馬海峡から日本海に入った台風以来ということです。
この台風は、猛烈な暴風雨により各地で大災害を起こし、種子島付近では海軍の特務艦「志自岐」が沈没し100余人が亡くなっています。
また、昭和7年11月15日の朝日新聞朝刊には次のような中央気象台の大谷東平技師(当時26才)の談話も大きく取り上げられています。
昭和7年(1932年)という年は1月に上海事変、3月に満州国建国宣言があり、その後日中戦争の激化などがあり、戦時体制が強化されていった年です。
そのせいか、11月15日の朝日新聞夕刊では、「七五三台風」を「空の非常時を演出した」と記しています。
そして、「お天気博士あきれる 先例や経験だけでは駄目になって来たよ」という、藤原咲平博士の談話を載せています。
ちなみに、この藤原咲平博士は、自身の名がついた「藤原の効果(台風が複数ある時の相互作用)」を解明した人で、後に中央気象台長に就任します。
また、大谷東平技師は、のちに大阪管区気象台長、気象大学校長、気象研究所長などを歴任しますが、台風予報の第一人者でした。
大阪管区気象台長時代の昭和36年(1961年)9月16日9時30分には、自分の名前で大阪府知事、大阪市長、大阪府警察本部長、NHK中央放送局長あてに電話をして、最大級の警戒と予防態勢をとるよう要望しています。
「大阪管区気象台長大谷東平が申し上げます。大阪は最悪の事態になります。」
自らの責任で、防災機関の最高責任者に直接はっきりした警告を出したのですが、これは、大阪を襲った第2室戸台風のときの話です。
第2室戸台風は、昭和9年(1934年)に全国で3066名が死亡した室戸台風と同様の規模やコースで、室戸台風のような暴風や高潮が発生しました。
しかし、死者・行方不明者数は202名と、室戸台風の約7パーセントでした。
大阪府の死者・行方不明者は、室戸台風の1888名に対し、第2室戸台風では29名(2パーセント以下)と、人的被害は極端に少なく、台風防災の成功例といわれました。浸水家屋は、室戸台風のときの97パーセントにあたる38万4000戸もあったのにです。
「七五三台風」の教訓は、2年後の室戸台風では活かされませんでしたが、29年後の第2室戸台風で活かされたのです。
図1の出典:デジタル台風(国立情報学研究所ホームページ)より。
図2の出典:饒村曜(平成5年(1993年))、続・台風物語、日本気象協会。
図3の出典:朝日新聞(昭和7年(1932年))、朝日新聞社。
表1、表2の出典:気象庁ホームページ。