【深掘り「どうする家康」】徳川家康(竹千代)の誕生と窮地に陥った父・松平広忠の決断
1月8日からNHK大河ドラマ「どうする家康」がはじまった。今回は徳川家康(竹千代)の誕生と窮地に陥った父・松平広忠の決断について、詳しく解説することにしたい。
天文10年(1541)、広忠は水野忠政の娘・於大と結婚した。その翌年12月、2人の間に誕生したのが竹千代(家康)なのである。その後の竹千代には、過酷な運命が待ち構えていた。
というのも、広忠は絶えず庇護者の今川義元の意向に注意を払う必要があり、各方面の脅威に備えなくてはならなかったからだ。決して安穏とはしていられなかった。
天文12年(1543)、広忠の叔父・信孝が松平家臣団から排斥され、織田信秀のもとに走った。同年7月には、於大の父・水野忠政が亡くなったが、その後継者の信元があろうことか、敵の信秀に与したのである。
その結果、広忠は今川氏への配慮から苦境に立たされた。広忠は泣く泣く於大と離縁することで水野家との関係を断ち、自らと松平家の立場を守ろうとしたのである。
広忠は妻を離縁してまでも、今川氏に忠誠を尽くすことを誓った。しかし、天文16年(1547)になると、信秀が安祥城に攻め込み、広忠が籠る岡崎城に迫るという緊迫した情勢を迎えた。
おまけに松平氏の一族や家臣のなかには、織田方に身を投じる者もあらわれた。広忠が織田氏に対抗するには、さらに今川氏と強固な関係を築く必要があった。
広忠の決断とは、子の竹千代を人質として今川氏の本拠・駿府に送ることだった。
天文16年(1547)8月、竹千代は18名のお供とともに岡崎を発ち駿府に向かった。ところが、田原城(愛知県田原市)の城主・戸田康光が突如として裏切り、竹千代の身柄は織田方に送られたのである。
信秀は人質の竹千代を楯にし、広忠に織田方に寝返るよう説得した。しかし、広忠は説得に応じず、今川氏のもとで徹底抗戦する構えを見せたのである。
康光が裏切った理由は不明な点も多いが、永楽銭1千貫文(あるいは100貫文。1貫文は現在の貨幣価値で約10万円)で竹千代を信秀に売ったという説がある。
激怒した義元は田原城に軍勢を送り込み、激戦の末に戸田氏を滅亡に追い込んだのである。