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姫路城を築城したのは赤松氏ではなく、黒田氏だった可能性が高い

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
姫路城。(写真:イメージマート)

 国宝そして世界遺産として知られる姫路城(兵庫県姫路市)は、別名「白鷺城」と称されている。今も国内外を問わず、多くの観光客が訪れる。現在、外国人観光客に関しては、入城料の値上げが検討されている。こちら

 ところで、姫路城は築城した経緯や築城年代などについて疑問が多いので、検討することにしよう。

 最初に姫路城を築城したのは、いったい誰なのだろうか。もともとの姫路城は、赤松円心が築いた陣だったといわれている。貞和2年(1346)、赤松氏庶流の赤松貞範がその陣をもとにして、築城したという説が有力だ。貞範は円心の次男で、赤松春日部家の祖となり、のちに美作国守護を務めた。

 以上の説は、橋本政次『姫路城史(上)』や石田善人『姫路市史 別編・姫路城』などで紹介されているが、史実として認めてよいのだろうか。正直なところ、以上の説はあまり良質な史料に基づいたといえず、史実として認め難い。率直に言うと、姫路城の築城の経緯を証明する手立てはないのが実情である。

 黒田官兵衛は姫路城主だったとされ、それは『黒田家譜』にも書かれている。近年、『伊勢参宮海陸之記』という史料に「姫路の用(要)害小寺官兵衛尉城主なり」と記されていることから、それが間違いないことが判明した。これは、天正4年(1576)6月の記事であり、「用(要)害」とは、城のことである。

 少なくとも、これ以前に姫路城は黒田氏の居城であったことになろう。ただ、今のような姫路城ではなく、規模の小さいもので、「原姫路城」と称するものだった。天正5年(1577)、中国計略を控えた羽柴(豊臣)秀吉に対し、官兵衛は姫路城の提供を申し出た。そして、姫路城は、秀吉によって改修が行われたのである。

 天正8年(1580)1月、秀吉は三木(兵庫県三木市)の別所氏を滅ぼすと、三木城を本拠にしようと考えたが、最終的に姫路城を本拠に定めた。その理由は、姫路城は近くに瀬戸内海が広がり、主要な街道が通っていたからだった。

 今後、毛利氏との交戦を考慮するならば、姫路城は絶好のロケーションにあったといえる。そう進言したのは、ほかならぬ官兵衛だった。同年、秀吉は本格的に姫路城を大改修し、三層の天守を築いたのである。

 のちに天守を解体修理した際、一回り小さい石垣が現在の大天守の石垣の中から発見された。これが、秀吉時代の遺構であると考えられている。姫路城については謎が多いが、官兵衛が姫路城を居城にしていたのは事実である。さらに遡ると、官兵衛の先祖が築いた可能性もあろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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