大谷吉継は石田三成との厚い友情により、負けると知りつつ西軍に与する決断をしたのか
大河ドラマ「どうする家康」では、大谷吉継が石田三成との厚い友情により、負けると知りつつ西軍に与する決断をした場面があった。関ヶ原合戦にまつわる映画やドラマなどでも有名なシーンであるが、この話は史実とみなしてよいのだろうか
慶長5年(1600)7月、三成は毛利輝元らとともに兵を挙げ、徳川家康に戦いを挑んだ。その際、盟友の大谷吉継を説得し、味方に引き入れることに成功した。以下、『落穂集』などの編纂物をもとにして、ことの次第を確認することにしよう。
慶長5年(1600)のある日、三成は輝元や安国寺恵瓊と天下の形勢について密談し、豊臣秀頼がこのままでは劣勢に追い込まれ、徳川家康が天下を取るのではないかと先行きを危ぶんだ。
同年6月、吉継は家康とともに会津に出陣し(会津征討)、7月に垂井(岐阜県垂井町)に到着した。三成は吉継と関係が深かったので、「打倒家康」の決意を伝えるべく、この機会に自邸に招いたのである。
吉継は三成の「打倒家康」の計画を打ち明けられると、即座に止めるように説得した。というのも、三成は諸大名から嫌われて人望がなく、前年の「三成訴訟事件」では吉継が間に入ったので、辛うじて切腹を免れたこともあった。
また、家康は関東で約300万石を領する大老の1人だったが、三成はその15分の1ほどの所領しか持たず、とても家康に対抗できるはずがなかった。
吉継は三成の要請をいったん断ったが、三成と長い付き合いがあった。吉継は改めて熟考し、三成を見放すわけにはいかないと考え、西軍に身を投じる決断をしたのである。
ところが、このエピソードは一次史料に書かれておらず、にわかに信用できない。吉継は三成との友情があったので、本当に西軍に与する決意をしたのか疑問が残る。
そもそも問題になったのは、家康の私婚などの専横である。上杉景勝の討伐は、その最たるものといえよう。また、気に入った大名には、豊臣家の蔵入地から所領を与えることもあった。
蔵入地の管理は、五奉行の職務だったので、三奉行(前田玄以、増田長盛、長束正家)は危機意識を抱いたと考えられる。彼らは、家康に職権を冒されることを不愉快に思った。こうした危機意識は三奉行だけなく、三成や吉継も共有していたと考えられる。
とはいえ、三成は慶長4年(1599)閏3月の訴訟事件後に、五奉行の職を解任されていた。また、そもそも吉継は家康派であり、三奉行も訴訟事件後に家康と良好な関係を築いていた。
つまり、彼らはそもそも家康の専横に危機感を抱いていたが、会津征討によりこのまま放置するのはまずいと考え、ついに挙兵を思い立ったと考えられる。家康への挙兵は単なる友情ではなく、極めて政治的な問題だったのだ。
三成と吉継との友情は、関ヶ原合戦の映画やドラマなどでは、ハイライトとなる名場面である。非常に感動的でもあり、涙する人もいよう。
しかし、当時の戦国武将は、決してお人好しではなかった。親が子を殺し、その逆もあった時代だ。三成も吉継も行動原理は打算的で、損得勘定があったに違いない。少なくともこの時点で、2人は「家康に勝てる」と思っていたのである。
主要参考文献
渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)