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死を宣告された男が、仕事に見た“夢” ー東芝で伝説をつくった西室泰三氏に学ぶ

河合薫健康社会学者(Ph.D)
著者: Kat...B

なんとなくモヤモヤした気分になることって、ないだろうか? 特に何かトラブルがあったわけでもなければ、失敗したわけでもない。虚しさとも、不安感ともちょっと違う。ただ本当に、なんとなくシャキっとしない。

 目先の短期的な目標がはっきりしていれば、到底そんな気分にならない。でも、そんなにいつもいつも目標があるとは限らない。その結果、自分でも説明のつかない虚脱感に襲われる。

 そんな部下に、たいていの上司は「だから、夢が必要なんだよ。将来がちゃんとイメージできれば、そんな気分になることはない」と言う。

夢を持って仕事をすればいい、と言われるが

 でも「夢を持て!」と上司に尻を叩かれても、どうやって持てばいいのか、ということすら分からない部下もいる。夢や将来のイメージが明確な人には理解できないだろうけど、なかなか夢を持てない人というのも、世の中にはけっこういるのだ。

 ひょっとしたら、夢を持たずに働いている人の方が、夢を持っている人より、多いかもしれない、と思うことさえある。なのに、夢に向かって歩いている人には、そんな気持ちはいっこうに伝わらない。

 知人のA氏もそうだった。

 「最近の若いやつらは、ホントなんていうか覇気がないっていうか。このあいだ部下5人とそれぞれ面談やったんだけど、そろいもそろって、『何をしたらいいのか、何がしたいのか分からない』って、言うんだよ。みんな就職氷河期入社で、どうしてもうちの会社に入りたくて入ったわけじゃないから、余計そうなっちゃうのかもしれないけれどね」と、彼は言った。

 そして、

 「だから、夢を持てって説教したよ。自分が10年後どうなっていたいか、イメージしろって。俺なんて、ずっと入社した時から夢追いかけてるから、悩むこともストレス感じること全くない。今のやつらが“ヤワ”なのは、夢を持っていないからだよ」と、絶好調で彼の“持論”を展開したのである。

 A氏は一流国立大学を出て、大学では体育会系の運動部に所属し、就職先は大企業。いわば、人生の“勝ち組”だ。常に自分で考え、行動してきた“超”前向き人間。彼がどんな夢を持っているのか確かめたことも、彼に夢を語られたこともないけれど、彼に明確な夢があることは話しぶりからも明らかだ。

 そんな彼は、「何をしたらいいのか分からない」という部下に、なんら迷うことなく「俺がやってきたようにやれば、問題ないでしょ?」と言ったのだった。

 そういえば大学の教育実習のとき(私は教育学部だったので)、現場の先生がいつも言っていたことがある。

 「先生になりたい人は、子供の時に逆上がりができなかったような人がいいのよ」と。

 その先生が言うには、「最初から逆上がりができた人は、できない子供が『なぜ、できないか』を理解できない。でも、最初はできなくて、いろいろ試して、苦労してやっとできるようになった人は『なぜ、できないか』を理解できる。そういう人は、できない子供の目線で物事を教えられるのよ」と。

 上司も、同じなのかもしれない。さっさと夢を見つけて、夢に向かって歩き続けている上司には、『なぜ、部下はやりたいことを明確にできないか』が理解できない。だから、「夢を持て! 目標を持て!」と、ごもっともな意見をいい続ける。

 ところが部下は、

・ どうやったら「夢を持てるのか?」

・ どうやったら「目標を持てるのか?」

が分からない。

 上司に言われれば言われるほど戸惑い、混沌としたカオスに陥っていってしまうのだ。

 でも、「夢を持て」という指示まで出してるんだから、それ以上上司が部下の世話をやく必要ないでしょ?」 

 そういう人はきっと、逆上がりが最初からできたのだ、と思いますよ。

 いずれにせよ、“そこまで”するかしないかは個人の判断として、世の中には、「自分が簡単にできたことを、簡単にできない人がいる」ということだけは、分かってください。

 そして、「なんとなくモヤモヤした気分になり、前向きになれない=夢がない」とは限らないことも、分かってください。

 では、「モヤモヤ気分」に話を戻そう。

 なんとなくモヤモヤした気分に襲われ、前向きになれない時、どうしたらいいのだろうか? 

 あるいは「何をしたらいいのか、分からない」と目的を見つけられない部下に、なんと言ってあげればいいのだろうか? 

 今回は、現在東京証券取引所社長兼会長で東芝時代に数々の業績を残した、西室泰三氏の事例で、考えてみようと思う。以前私がお伺いした話である。

 本題に入る前に……。 

 西室氏が経済界で頭角を現したのは、1995年に東芝の専務取締役に就任し、DVD規格戦争の指揮官として東芝に大勝利をもたらしたことがきっかけである。当時、本命と思われていたソニーとフィリップ連合軍のMMCDを相手に、西室氏は東芝を大逆転勝利に導いた。その後先輩8人を飛び越えて社長に就任し、東芝の歴史に残る数々の変革を成し遂げ、実績のみならず、記憶に残る社長の1人となった。

 そんな西室氏が若い頃、難病に襲われ死の危機に面した経験を持っていることは、あまり知られていない。

 1961年に当時の東京芝浦電気に就職して半年ほどたった頃、西室氏は原因不明の難病に襲われた。ある日足が思い通りに動かなくなり、特に疲れると筋肉が死んでいくという感じがしたそうだ。病院にいったところ、医師に「もってもあと5年」と、余命を宣告されたのだった。

 西室氏は、原因不明の筋肉が衰えていく病に侵されていた。医師からは、「足から始まっている筋肉の衰えが、しだいに身体の上部に移っていき、最後に心臓までいったら終わりです」と言われたそうだ。

 死を宣告された時のことを氏は、「わけが分からなかった。終わりって言われてもピンとこないし、ちっとも現実味がないから、ショックを受けるということもない。ただただ、わけが分からなかった」と、語っている。

自分の死を否定しようとする患者たち

 死に瀕している患者200人以上にインタビューを行った、精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスによれば、ほとんどの人は自分が不治の病と知った時、「私のことではない。そんなことがあるはずはない」と思ったという(『死ぬ瞬間―死とその過程について』)。

 人間は無意識に「自分は簡単に死なない」という認識を持っているため、受け入れることなどできないのだ。そして、人間の「生きたい」という本能が、死の恐怖から自己を守ろうと、「否認」という対処法を選択する。

 あるがん患者は、レントゲン写真を他の人のものと間違えて診断しているのではないかと医師に訴え、また、ある患者は検査結果が間違っているとして、治療を拒みつづけた。病気の初期に宣告された患者も、少したってから自分自身で気がついた患者も、同じように否認をする過程が認められている。

 何が何だか分からなくなったと語っていた西室氏。まさか20代の若さで自分が死ぬなど、想像できるわけがない。「そんなわけはない」と強く否定した西室氏は、あちらこちらの病院をめぐり、半年以上かけていろいろな先生の診断を仰いだそうだ。ところが、どこも結果は同じ。どの先生にも一様に、「原因不明。余命5年」と言われたのだった。

 だが、どんなに否定しても、日に日に足は動かなくなった。確実に弱まっていく筋肉を目のあたりにし、悪夢が現実味を帯びてきた。その途端、極度の恐怖を感じ、とにかく頭からその恐怖を遠ざけようと、がむしゃらに働いた。

 頭の中を仕事で埋め尽くせば、恐怖を忘れることができる。そこで、西室氏はできるだけ会社で残業をし、仕事をひたすらやり続けたそうだ。それでも埋まらない時間は、たばこと酒で紛らわした。1日でワンカートンものたばこを喫っていたというのだから、その恐怖の重みが伝わってくる。医師からは「筋肉の病気で死ぬ前に、肺がんで死ぬ」と警告されるほど、たばこで時間を埋めたそうだ。

 ところが、である。

 なんと西室氏は、恐怖ととなり合わせの状況で、「自分のモニュメントを東芝に作ろう」という目標を掲げたのだ。

 

 死んだ後に忘れられてしまうような生き方をしては、意味がない。自分の死後も周りの人たちが自然と自分のことを思い出してくれるように、東芝に自分のモニュメントを作れるような人間になろうと、将来をイメージした。

 前述のキューブラー・ロスの報告では、多くの患者たちは時間の経過とともに否認することをやめ、もっと穏やかな防衛メカニズムで恐怖から身を守ろうとしたという。決してすべてではないが部分的に死を受け入れ、治療に専念したり、好きな人と多くの時間を過ごすことで乗り越えようとした。

 

 なのに西室氏は、おだやかな防衛メカニズムではなく、きわめて積極的、かつ攻撃的な防衛法をとって、恐怖を乗り越えようとしたのだ。

 「生きている価値があるということは、自分がいなくなった後でも、『あの人がここにいてくれればな』と思ってくれることじゃないか、ってね。だから残された時間で、そういうふうに自分のことを思い出してくれる人を、どのくらい増やすことができるだろうと考えましたね」と西室氏は語った。

 

 「何回も何回も自分で考えるうちにね、それだけの時間があれば、多分みんなが覚えてくれるだけの仕事はやれるよね、と思えるようになった。“5年も”あれば、何か自分でできる、と思ったんです。そう、“5年も”あるってね」

目標を持つことで働き方が変わった

 その瞬間から、それまで「恐怖から逃れるため」だった“がむしゃらで無謀”な働きぶりが、「目標」を達成するための“努力”に変わった。死という人間にとって最大、かつ最強のストレスに遭遇し、将来を失ったかにみえた西室氏が、将来に向かって歩き始めたのである。

 なぜ、西室氏はそんな過酷な状況で「自分のモニュメントを作る」という目標を掲げることができたのか? 

 そこには2つの要因があった。

 1つ目は、母親の存在だ。

 当時西室氏は、会社には病気であることを隠し、上司や同僚には「昔、スキーをやっていて痛めた足の具合が悪い」と告げていたそうだ。病気だと知れれば、どんな処遇が下されるかわからない。そこで、身体がどんなにしんどくとも、隠し続けた。

 そんな西室氏が、唯一気を許せたのが母親だった。母は“お茶断ち”をし、お百度参りをし、ひたすら西室氏の回復を祈ったそうだ。そんな母親を見て、「残された時間を価値ある生き方にしないと、母親に申し訳ない」と思ったという。

 「価値ある生き方とは、どんな生き方か?」

 何度も何度も自問し、答えを出した。

 「自分がいなくなった後でも、『あの人がここにいてくれればな』と思ってくれるような生き方だ」と、考えたのだ。

 そして、2つ目の要因が、「自分にできる目の前のことに、ひたすら取り組んだこと」だ。

 氏は恐怖を頭の外に追い出すために、ほとんどの時間を仕事に費やした。ただ費やすだけでなく、「自分のできることはないか?」とプラスαを探し、自分の仕事に加え続けた。

 商品を売るには商品のことをとことん知ろうと、毎週末工場に通い、工場員の作業を見学し、技術者に商品について教えてもらった。当然ながら、余命を告げられていた西室氏に、この時将来の夢などなかった。「夢をかなえるために、何かを達成するため」に仕事をしたのではなく、恐怖から逃れるためだけに、ただひたすら仕事に全精神を傾けたのである。

 ところが、最初は恐怖から逃れるために没頭した仕事が、やればやるほど楽しくなった。自分の知らないことを技術者から教えてもらい、自分の職場以外の人と関わるうちに、仕事が面白くなったのだ。

 自分にできることが、他にはないか?

 自分の知らないことは、他にはないか? 

 こうして、自分に与えられた仕事にどんどんプラスαを加えていった。

 心を“無”にし、ひたすら目の前の仕事に全精神を傾けたら、仕事が面白くなっていた。その結果、「自分のモニュメントを東芝に作ろう」という目標が生まれたのだ。

 念のため繰り返すが、これは氏が入社して間もないころの話だ。つまり、新人。まだ半人前で、簡単な仕事しか任されていないのに、その簡単な仕事に自分で付加価値をつけていったのである。

 前述のA氏のように、「夢や目標を掲げれば、仕事に前向きに取り組める」と、誰もが思う。だが、逆もまた真なり。「目の前の仕事にただひたすら取り組めば、夢や目標が見えてくる」こともある。

 夢が必要だからと無理やり夢を掲げたり、目標が必要だからと無理やり「目標」を立てるのではなく、体感する中で自然とわいてきた夢や目的には、“命”が宿る。体験する中で抱いた夢や目標は、より現実味が出てくる。頭だけで考えた夢は妄想で終わりやすいが、体感する中で抱いた夢は、叶えられる夢となる。

 頭で考えるのではなく、動いて、感じることが必要なのだ。

 「何をしたらいいのか分からない」とぼやく部下に、「それ、夢を持て! それ目標を掲げろ!」と言うのではなく、「目の前の仕事をひたすらやってみろ!」と、助言してもいいのではないか。

 自分に与えられた仕事を100%こなすだけでなく、101%、102%と、もっともっと無心に目の前のことだけを繰り返すと、不思議と「自分のやりたいこと」が見えてくる。

 夢や目標がないから、「何をやったらいいのか分からない」のではない。

 何もやっていないから「夢や目標が分からない」のだ。

 思い返せば、私もそうだった。

 以前、コラム「元客室乗務員が激白。女社会にはびこる男の価値観」でお話したが、私は「自分の言葉で伝える仕事がしたい」と言ってCA(客室乗務員)を辞めた。何の言葉も持っていないのに、漠然とそんな“夢”を見た。

 たぶん、気象予報士の仕事に出会わなければ、その想いは妄想に終わり、私は「若気の至りで勘違いして辞めてしまった元CA」になっていたに違いない。

 しかし、ふとしたきっかけでお天気の世界に入り、民間の気象会社でひたすら天気について勉強し、天気予報の仕事に関わるうちに楽しくなった。ひたすらお天気キャスターをやるうちに、天気が人間の心や身体に与える影響を知りたくなった。

 そして、自分で調べ番組で実験した「天気と心の関係」を1冊の本『体調予報』(講談社α新書)にしたら、もっと人間の心や身体に影響を与える環境要因が知りたくなった。それが、大学院に進んで医療や健康について研究するようになったきっかけである。そして、修士課程でひたすら研究に没頭するうちに、「一人前の研究者」になりたくなり、博士課程に進み、今に至っている。

 最初に空を飛び、次に空を予想し、そして人の心の空模様を見るようになるなんて、「自分の言葉で伝える仕事がしたい」と漠然と夢見たCA時代には、想像もしていなかったことである。自分の言葉など1つも持っていなかった「勘違い小娘」が、ひたすら目の前のことをやり続ける中で、生きた“目標”が生まれ、“妄想”が“夢”になった。本当の言葉を求めて、歩き始めるようになったのである。

 それでも、私は何をしたらいいのか、分からなくなることが、今でもある。今時の若手社員だけでなくアラフォ―だって、何をしたらいいのか、前向きになれずに分からなくなって、モヤモヤした気分に襲われるのだ。

 そんな時は、「今できることを、ひたすらやれ!」と自分に言い聞かせる。何度も、何度も、その繰り返し。不思議なことに、そうしているうちに、モヤモヤした気分だったことを忘れ、再び、前向きに歩き出すことができるのである。

 多分、人間というのは、常に前向きに歩いていけるほど強くもなければ、どんな目標を立ててもどんな夢を見ても、案外簡単に忘れてしまう、「ちょっとおバカな動物」なのだ。

 そこで、だ。

 部下だけでなく、あなた自身も、モヤモヤしてシャキっとしない時には、何も考えずに目の前のことを“無心”にやるといい。

 何かのためとか、何か達成するためではなく、ただ自分にできることを100%、101%やり続けるといい。

 昔、逆上がりが出来た人でも、年をとってお尻やおなかにお肉がつくと、できなくなることだってある。そんな時には部下と一緒に“無心”になって、あれやこれやと、やってみるといい。

 そうすればあなただけでなく、あなたの部下にも、これまでとは違う風景が見えることだろう。

 そして、余命5年と宣告された西室氏が今なおお元気なのは、仕事の成果が認められて3年後に米国駐在になり、そこで最新の医療に出会い、一命をとりとめたからである。「自分のモニュメントを作ろう」と必死に働いたことで、命まで取り戻すことができたのだ。

 これから先、自分の未来に何があるかは、無心に取り組んだ人にしか分からない、のである。

ーーーーそして、昨夜、西室さんが亡くなってしまった…。西室さん、ありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げますーーー

健康社会学者(Ph.D)

東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。 新刊『40歳で何者にもなれなかったぼくらはどう生きるか』話題沸騰中(https://amzn.asia/d/6ypJ2bt)。「人の働き方は環境がつくる」をテーマに学術研究、執筆メディア活動。働く人々のインタビューをフィールドワークとして、その数は900人超。ベストセラー「他人をバカにしたがる男たち」「コロナショックと昭和おじさん社会」「残念な職場」「THE HOPE 50歳はどこへ消えたー半径3メートルの幸福論」等多数。

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