【河内長野市】原町にある陰陽師安倍晴明の晴明塚の伝承とは?自らの過ちを認める潔さはやはり大物の証かも
西高野街道の原町に、晴明塚があります。晴明塚の晴明とは、陰陽師で有名な安倍晴明のこと。京都や大阪など各地に、安倍晴明を祀る晴明神社があります。これは晴明の功績にあやかった他の陰陽師や祈祷師たちが記念して、全国各地に晴明塚を立てたからとか。
河内長野の晴明塚も、そんな晴明塚のひとつとされますが、その伝承が個性的な気がするのです。最初に全国各地にある晴明塚の伝承を見ると次の通りです。
- 茨城県筑西市の晴明塚→この地方に疫病がはやった時、晴明はここから筑波山方面に矢を放ちこれを鎮めた。
- 静岡県掛川市の晴明塚 → この地に立ち寄った安倍晴明が津波除けの祈祷を行い、以後その地では津波の被害がなくなった。
- 愛知県あま市の晴明塚→ 晴明がこの地を通った時、田の雑草に百姓が困っていることを知りその害を除く祈祷を行った。
- 兵庫県佐用町の晴明塚→ 晴明塚と呼ばれる「宝篋印塔」が木谷甲にあって、すぐ近くの木谷乙には、ライバルの「道満塚」がある。(道満とは道摩法師とも呼ばれる非官人の陰陽師)
- 広島県福山市の晴明塚→ 晴明の末裔とされる現地在住の安倍氏一族が「晴明の墓」として手厚く供養。
- 岡山県浅口市の晴明塚 → 晴明が天文観測のために屋敷を構えていた。
- 香川県高松市の晴明塚→ 安倍晴明が神主をしていた。
このように、津波の被害がなくなったとか疫病を鎮めたとか、どちらかと言えば安倍晴明が「すごい人物」として称えているような伝承に基づいているものばかりです。
ところが河内長野の晴明塚の伝承は少し異なります。
- 大阪府河内長野市の晴明塚→ 自らの占いが物乞いの予測に負け、浅学を恥じた晴明がこの場で書物を焼き捨てたという。
予測に負けて書物を焼き捨てたという、「すごい人物」どころか「ダメな人物」とすら感じてしまう伝承です。この伝承について詳しく調べてみると、次のような内容だとか。
晴明が、時の天皇(花山天皇?)と一緒に、高野山を参拝するために天気予報をします。晴明が天文学や暦学といった当時の最新の学問で天気を占うと「晴れ」になりました。
そのために天皇の行幸が行なわれましたが、晴明塚のあたりまでくると、近所の老人(物乞い)が「そろそろ雨が降るなぁ」とつぶやくのを耳にします。しかし、「物乞いの言うことなど適当だ」とばかりに、晴明たちは先に進みます。
ところが、紀見峠にさしかかると大雨になってしまいます。このとき天皇が「雨ではないか!」と、晴明をとがめますが、晴明はどうにかごまかしてその場をやりすごしたとか。
高野山からの帰りに晴明は、その時の老人と会って話を聞きました。すると日ごろの自分の身体の具合(雨が近づくとできものがかゆくなる)とかで天気が解るといいます。
このときに晴明が気づいたことは「学問に頼るのではなく、日頃から身をもって経験することの大切さ」を知ります。
そこで晴明は、自分の浅はかさを恥じて、天文学や暦学の書物などをその場所に埋めたという内容です。
花山、一条という歴代天皇のほか当時もっとも権力を持っていた藤原道長からの信頼があり、陰陽師として圧倒的な存在感があった晴明の失敗談ともいえる伝承が残っているのはなかなか珍しいところ。
「猿も木から落ちる」「弘法にも筆の誤り」のようなことわざを思い出します。
天皇の信頼も得たような貴族の一員である晴明が、築き上げてきた学問。それなのに素性もわからない(物乞いとも言われている)地元の老人の経験に負けたこと。
だけどその失敗をあっさりと認めて、経験の大切さをしっかりと学べたところが晴明のすごいところなのかもしれません。
晴明塚の裏を見ると「さうい 神南邊」と書いてあります。誰の事かと思って調べると神南邊大道心隆光(かんなべだいどうしんたかみつ)という人が出て来ました。
神南邊さんは江戸時代の人で鋳物師だったそうですが、元々殺傷を好む素行の悪い人だとか。あるとき夢の中に現れた地蔵菩薩により善行を積めば救うと告げられ、仏門に入り、以降諸国を行脚して各地に道標や橋・地蔵を建立したとあります。
神南邊さんは現在の堺市堺区に墓があるとかで、「さうい」とみえるのが堺(さかい)であれば、神南邊さん(または関係の深い人)が、西高野街道に道標を立てる際に晴明由来の地ということで晴明塚を建てたのかもしれません。
晴明塚の奥には地蔵堂があり、地蔵菩薩が安置してありました。この地蔵を晴明塚の後ろに安置したのが神南邊さん(又は関係者)かどうかは情報がなくわかりませんが、どうも関連性があるような気がします。
原町の晴明塚と地蔵堂
住所:大阪府河内長野市原町3丁目6
アクセス:南海千代田駅から徒歩10分