日本で一番有名な橋 橋の文字を書いたのは実はあの人だった!知って得する豆知識で頭をリフレッシュ!
江戸東京日本橋。1603年(2023年の420年前)関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が幕府を開いた年に日本橋川に日本橋が架けられました。翌年には徳川幕府直轄の陸上交通路でもある五街道(東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中)が整備され、日本橋はその起点に定められました。
徳川幕府が整備し直轄で管理した五街道。明治時代以降には五街道の宿場を縫うように国道や高速道路などの主要道路や鉄道が整備されており、現在でも日本社会にとって重要な大動脈でもあります。江戸時代に五街道の起点であった日本橋、現在では日本国道路元標が置かれており、主要7国道、国道1号(旧東海道)、4号(旧日光街道・奥州街道)、6号、14号、15号、17号(旧中山道)、20号(旧甲州街道)の起点となっています。徳川家康の命により整備された五街道、その起点である日本橋の4隅の親柱に書かれている日本橋・にほんはしの文字は誰によるものなのか…。
徳川幕府最後の将軍 15代徳川慶喜
日本橋川にかかる日本橋の4隅の親柱の文字は徳川最後の将軍、徳川慶喜によるものです。現在の日本橋は1911年(明治44年)に架けられた石造二連のアーチ橋です。当時、徳川慶喜は74歳であり、2年後の1913年(大正2年)に亡くなられているので、日本橋が架けられたころには健在でした。江戸幕府を開いた徳川家康が五街道の起点とした日本橋。江戸時代から明治、大正へと移り変わりゆく中で、日本橋の文字は幕府最後の将軍によって書かれ、現在でも日本橋の4隅に存在しています。徳川慶喜は急速に近代化していく社会を見つめながら、どんな気持ちでこの文字を書いたのでしょうか…。
1867年の大政奉還を経て時代は変わっていきますが、江戸時代の戦が無い約260年間、江戸は人口100万を上回る世界で一番人口の多い都市となりました。経済的にも大きな発展を遂げており、その資本の蓄積は、明治維新以降の経済発展の原動力となりました。
日本国道路元標の文字は、元内閣総理大臣 佐藤栄作
日本橋にある日本国道路元標は日本橋中央の車が行きかう車道の真ん中に埋められているのですが、さすがに車道の真ん中では見ることはできません。橋の北西にある橋詰広場にレプリカが置かれています。この文字を書かれたのが、当時の内閣総理大臣であり、ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作です。
日本の道路の起点の場所は、日本橋の上、道路の真ん中でその場所には大正時代に東京市道路元標が建てられました。東京市道路元標は都電の架線支持支柱を兼ねていたので、都電の廃止と同時に日本橋の橋詰広場に移転されています。同時に道路の真ん中にある日本の道路の起点の場所には現在の日本国道路元標のプレートが埋め込まれました。
大正時代の旧道路法により、全国各地に道路元標が造られましたが、1952年(昭和27年)施行の新しい道路法により大正時代の旧道路法は無効となりました。現在、道路元標には規定がなく道路の付属物とされており、道路の起終点は道路元標と無関係になっているとあります。