徳川家康が羽柴秀吉に贈った初花肩衝は、とんでもない価値を持つお宝だった
今回の大河ドラマ「どうする家康」は、徳川家康が羽柴秀吉に初花肩衝を贈っていた。実は、初花肩衝はとんでもない価値を持つお宝だったので、その価値について考えてみよう。
初花肩衝は陶製の茶入れのことで、中国の南宋または元の時代に製作された。初花は足利義政が命名した銘、肩衝は器の肩部が水平に張った茶入を意味し、「大名物」として名を馳せていた。現在、初花肩衝は公益財団法人徳川記念財団が所蔵し、重要文化財に指定されている。
初花肩衝は天下三肩衝(ほかは楢柴肩衝・新田肩衝)の一つで、まさしく国一つに値する価値を持っていた。当時の戦国大名は、競って茶の名器を欲しがっていた。日本にわたる前の初花肩衝は、楊貴妃の油壺だったと伝わっているほどで、誰もが欲しがったに違いない。
初花肩衝は茶人の村田珠光が所持し、のちに門人の鳥居引拙の手に渡った。それから京都の商人・大文字屋疋田宗観が所持するところとなり、永禄12年(1569)頃に織田信長に献上された。信長が茶会を催したときに初花肩衝を使用したことは、文献によって明らかである。
天正5年(1577)、信長は子の信忠に家督を譲ったとき、茶器も贈った。その茶器のなかには、初花肩衝が含まれていた。5年後に本能寺の変が勃発すると、初花肩衝の所在が不明になってしまう。しかし、何らかの経緯を踏まえて、初花肩衝は家康配下の松平親宅の手に渡っていた。
商人でもあった親宅は、初花肩衝を家康に献上した。これにより、家康は親宅が負担すべき、倉役・酒役などの諸役を免除したのである。ところが、家康は初花肩衝を手放すことになった。
天正11年(1583)、秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利した。その戦勝祝いとして、家康は秀吉に初花肩衝を贈ったのである。秀吉は茶会を催すと、初花肩衝を参列した人々の前で披露した。その後、秀吉は楢柴肩衝・新田肩衝を手に入れ、天下三肩衝をすべて所有することになった。
慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、初花肩衝は宇喜多秀家に形見分けされた。2年後の関ヶ原合戦で西軍に属した秀家が敗北したので、初花肩衝は再び家康のもとに戻ってきた。そういう意味で、初花肩衝は不思議な来歴を持つ茶器だったといえよう。