【戦国精鋭部隊・赤備え】武田・井伊・真田の赤備えとさまざまな色分け軍団
戦国時代、鎧兜などの武具を同じ色で統一した部隊を【色備え】と呼んでいました。
特に、赤色や朱色を基調とした武具を纏う【赤備え】は有名です。
日本史においては、武田・井伊・真田の赤備えなどが知られています。こうした色で統一された部隊は味方が識別しやすく、結束力を高め、時には威圧的な効果も生み出すことができました。
どうする家康でも、武田や井伊の赤備えが登場しました。
そこで今回は赤備えと世界中のさまざまなカラー軍団について紹介して行こうと思います。
元祖・武田氏の赤備え軍団
赤備えの元祖は武田氏重臣の飯富虎昌(おぶとらまさ)が指揮する部隊で、主に次男や三男たちで構成されていました。当時、家督は長男が継ぐのが常識で、次男や三男たちは戦いで戦功を積むことが出世の唯一の方法でした。
そのため、この部隊の兵士たち個々の向上心が高く、それが武田の赤備えの強さの源だと考えられています。
飯富虎昌の死後、軍団の指揮は弟の山県昌景に引き継がれ、三方ヶ原の戦いで徳川軍を打ち破り退却させました。その後、家康は赤備えの存在がトラウマとなり、何度も夢に出たと言われています。
武田の赤備えが強かった事から『赤備え=精鋭軍団』というイメージが付きました。
武田家の赤備えを引き継いだ井伊の赤鬼
武田氏の滅亡後、徳川家康は武田の旧臣達を取り込み、武田の赤備え部隊も組み入れ、その指揮を井伊直政に託しました。
直政は1584年の小牧・長久手の戦いで赤備えを率いて登場。彼は鮮やかな赤い甲冑に身を包み、敵を圧倒し、その勇猛な姿から『井伊の赤鬼』と称され、多くの大名たちから恐れられました。後に彦根藩はこの赤備えを受け継ぎ、それは幕末まで続くことになります。
前述の通り赤備えは、味方が分かりやすいメリットがありますが、目立つ事で敵に狙われるデメリットも抱えていました。そのため、1866年の第二次長州征伐では彦根藩の赤備えが災いとなり、絶好の攻撃対象となりました。
真田の赤備えは家康を追い詰めた!?
大坂の陣では豊臣家が滅び名実ともに徳川の世になりました。
この戦いにおいては、赤備えを率いた真田幸村が家康を苦しめます。
徳川家康は自軍の赤備えは井伊直政が亡くなって以降、見た目の鮮やかさだけで実戦経験が乏しいと嘆いていました。 一方で、豊臣方の真田幸村は使い込まれた赤い甲冑を身にまとい戦場を駆け巡り『これが真の赤備えだ』と言ったそうです。
夏の陣では、幸村が率いる赤備えが家康に猛攻を仕掛け馬印を倒し、家康自身も死を覚悟したと言います。家康が馬印を倒されるのは2度目で、1回目は武田赤備えによるものでした。徳川家康は生涯で2度も異なる赤備えに命を脅かされたのです。
他の大名家の○○備えや世界のカラー軍団
戦国時代は、精鋭部隊が使用する甲冑や旗指物の色を統一する色備えが行われていました。上記のような赤備えの他に、北条五色備や福島正則も『赤坊主』と呼ばれる赤色の精鋭が存在します。
また、織田信長は側近に母衣(ほろ)をまとわせた母衣衆も黒と赤に色分けされていました。豊臣秀吉も信長を模して、数色に分けた母衣衆を作ったとされています。
世界に目を向けても、呉の呂蒙は軍事パレードで自部隊を赤で統一したとも言われています。イギリス陸軍は、20世紀初頭まで赤色の上着を軍服として採用していました。現在も、イラストのような近衛兵の正装として採用されています。
世界の名前に色のついた軍団・部隊
クズルバシュ
サファヴィー朝で、赤い心棒に12のひだがある布を巻きつけたターバンを被った部隊。クズルバシュはトルコ語で【赤い頭】を意味します。
黄巾賊
後漢末期に張角を指導者に起こった農民による『黄巾の乱』では、目印に黄色い頭巾を被っていました。
紅巾賊
黄巾の乱と読み方が同じですが、元で1351年に起こった農民の反乱『紅巾の乱』でも目印として紅い布をつけていた事から呼ばれていました。
ほかにも、20世紀くらいまで軍人が属する兵科によって色が異なりました。第二次大戦中のアメリカ陸軍では歩兵がライトブルー、騎兵が黄色といったように色分けされています。
現在ではカモフラージュがしやすいカーキ色や迷彩模様が採用され、所属部隊や兵科による色分けは、ベレー帽や腕章などに残っているようです。