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競技引退を表明した小松原美里・単独インタビュー 一番緊張する場面で発揮した、チームココの強さ

沢田聡子ライター
(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

アイスダンサーとして長く国際大会で活躍し、2022年北京五輪では団体のメダル獲得にも貢献した小松原美里が、競技引退を表明した。パートナーである夫のティム・コレト(日本名・尊)は今後について熟考中で、二人が出したのは、小松原組解散という結論だった。練習拠点であるカナダに滞在中の美里に、リモートで現在の心境を聞いた。

――競技引退を発表されたコメントからは清々しさが伝わりましたが、世界選手権直後のコメントからは競技に対する意欲もうかがえました。決断に至るまでの心情、背景を詳しくお聞かせください

引退に関しては年齢も年齢なので、北京オリンピックのあたりから毎年毎年考えていることではありました。ですが、(優勝したものの世界選手権代表に決まらなかった)去年の全日本選手権の後に、やっぱりかなり凹みまして。そこから頑張れたのですが、その時に90%ぐらいは決めていたかなというところがあります。

ただ世界選手権のリズムダンスでミスをしたために「もっとできるんじゃないか」と思ったところがあって。フリーダンスの後「もうちょっと考えた方がいいかな、どうしようかな」と、一回揺らいだ時間がありました。自分の心が定まらないままで「絶対ミラノ(五輪)まで頑張ります」とも言えず、まずは「考えます」と言っていたところがありました。

――SNSのコメントに「今年は毎試合怪我と戦っていた」とありましたが、試合の前後にはそういう事情は口にしていませんでした

全日本選手権前は、膝の内側にある内側側副靭帯が数か所少し伸びており、内腿には筋肉の断裂が少しみられたのですが、本番はなんとか頑張りました。四大陸選手権前は自分でも気づいていなかったのですが、右股関節が外れてしまって。少し休んでリハビリをしてなんとか戻し、四大陸選手権に出場しました。世界選手権では、リズムダンスの公式練習で骨盤の関節を少し痛めてしまいました。

今は、終わったから言えます。エゴなのかもしれませんが、自分が戦っている時は言いたくなかった。それを理由に結果をとらえたくない自分がいたので、自分のベストを尽くすことに集中していたところがあったと思います。

――卵子凍結を決断されたことを、公にされています。今回の決断の背景には女性としてのライフステージも影響があったのかなと個人的には思いましたが、いかがでしょうか

それが決断の大きな範囲を占めたかと言われるとまったくそうではないんですけれども、決断するにあたって、やはり男性の32歳と女性の32歳では選択の仕方がかなり違うなとは実感しました。でもそれがメインの理由で引退を決めたのではなくて、やはり選手として満足してしまった、というところかと思います。

――その「満足」は、最後の試合となった世界選手権のフリーで思い通りの演技ができたことについてでしょうか

そうですね、プラス全日本選手権の後はかなり凹んで体も痛かったのですが、四大陸選手権で自己最高得点を出せました。そこからの頑張りに対しては、今まであまりできなかった「自分を認めてあげる」ということができて、もうその時点でかなり満足していましたね。世界選手権のフリーダンスについても、リズムダンスを失敗して自分の頭の中で一晩かなり戦ったのですが、そこから練習してきた演技ができたことは大きかったです。

――優勝した全日本選手権では世界選手権代表が決まらず、四大陸選手権日本代表3組の中で最上位になったカップルが世界選手権に出場することになりました。小松原組は四大陸選手権で自己最高得点を出し、世界選手権出場を決めています。メンタルの強さと経験値の高さを感じ、小松原組の真骨頂だなと思いました

8年間一緒に滑ってきて、北京五輪代表選考やオリンピックのスポット(出場枠)獲得など、一番緊張するところで自分達の練習してきたことを出せるというのは、チームココの強さだったかなと思います。二人の心の強さもありますけど、やっぱり支えて下さっている方の応援があって。言葉でどう表すかはちょっと難しいですけど、自分の思っている以上に集中ができたり、終わってみれば「何故出来たんだろう」と思うようなことができたりしたのは、やっぱり応援して下さった方がいたからかなと思います。感謝しています。

――北京五輪代表選考の時もそういう力を感じたということでしょうか

そうですね、今考えたらどうやって乗り切ったのか分からないですけど、でもゾーンみたいな状態には入っていたので。1秒1秒、ゆっくり緊張を楽しんで過ごしたかなと思います。

――北京五輪代表選考と今季の四大陸選手権が小松原組のキャリアのハイライトと感じますが、美里さんご自身は今振り返られていかがですか

そうですね、まさにその通りです。「やっぱりオリンピックが一番のハイライトですか」って聞いて下さる方がいるんですけれども、自分の選手生活としては、オリンピック選考と今回の全日本選手権で凹んでからの四大陸選手権、その途中の練習が一番頑張ったなと思って。そういう頑張り方というのは、競技生活だけじゃなくて今後の人生にも生きてくるかなと思うので、一番心に強く残っています。

――尊さんとはどのように話して、こういう決断に至ったのでしょうか

ティムの場合は、まだやっぱり(2026年ミラノ・コルティナダンペッツォ五輪まで)2年続けたい、やり切っていないという思いがあるみたいです。アイスダンスは二人で成り立っているものなので、後2年覚悟が決まらないまま自分のことを押せるかというと、残念ながらそうは思えなくて。そういう状態で頑張ったとしても、オリンピックに行ける保証はまったくないですから「全力が尽くせないと思う」という思いをシェアしたところで、ティムには大変申し訳ないですけれども、引退を先に決意させていただきました。

これからもアイスショーではティムと一緒に滑りたいですけれども、現役引退についてもまだどうするのか。もしかしたら新しいパートナーを見つけたいかもしれない、いやもしかしたらそうじゃないかもしれない、と本当に今揺れているので、発表が難しい。もうちょっと時間をあげたいなという感じです。

――美里さんはコーチの資格をカナダで取得する予定ということですが、今後も拠点はカナダに置くのでしょうか

働くためのビザ取得が、(カナダでは)かなり難しいので。今持っているビザは6月末まで有効なので、それまでに資格を取得しようと考えています。まだ日本が取り組んでいない「セーフスポーツ」というシステムを勉強してから、帰国しようかなと思っています。

今学んでいる「セーフスポーツ」は、セクシャルハラスメントやモラルハラスメントが起こりづらくなるようにするシステムです。選手やコーチなど関係している人がお互い安心できる環境作りのシステム、ととらえています。

自分がコーチになる時に何を軸に置くか、メンタルの先生とも話しているのですが、「健康を大切にして選手を育てていきたい」という気持ちがありますね。自分が困った時は情報があっただけでも嬉しかったので、それをどんどんシェアできるように。スポーツ心理学を教えていただいている先生からもう少し学んで、シンポジウムを一緒に行うことも考えています。

メンタルの先生に診ていただいたきっかけは、2019年におこした脳震盪です。自分が何故スケートをしているのか分からなくなって、うつのような症状も出ていたので、その時から支えていただいて、最後まで伴走していただきました。

――日本でのアイスダンスについて、今は若手が育ってきました。田中梓沙・西山真瑚組とは(カナダ・モントリオールの)同じリンクで練習していますね

最後のシーズンに新しい風を感じて、おかげでより頑張れたところがありました。次の世代がいてくれるという気持ちは、引退する決断の手助けにはなったかなと思っています。自分が決めるにあたって、不安がないというか。前の世代がいてこその今で、またここからどうなるのか、楽しみにしています。

――モントリオールのトップチームで得たものは、これから教える立場で生きますね

一人の先生で一人の生徒を見るのではなく、チームとしてサポートを受けるという形が、選手としてはやっぱり練習しやすかったかなと思います。もし自分が日本でチームを作っていけたら選手が伸びる環境作りになるのかなと思って、今はそれを勉強しています。

――競技生活を振り返られて、一番心に残っている「これが自分の演技」といえるプログラムはなんでしょうか

やっぱり(北京五輪シーズンのフリーダンス)『SAYURI』でしょうか。衣装もデザインの細かいところまでこだわり、音楽編集もしました。ナレーションも、夏木マリさんに直談判でお願いして。自分の大好きな日本という国を表現するために、本物の方(歌舞伎役者の片岡孝太郎さん)から手の動きを学びました。すべての経験を通して、一番こだわったかなと思います。

――映画『SAYURI』のメッセージ「水は石を貫く」という言葉が、あのシーズンの小松原組を象徴していたように思います

映画の最初に「水は石を貫く」というナレーションが入ってくるのですが、「絶対にこれを入れたい」と。そのシーズンは、「水になりたい」と思って滑っていました。何か困難があっても柔らかく乗り越え、静かに綺麗に存在していて「本当に強いな、水って素敵だな」と思っていたので、そう言っていただけて光栄です。

――これから、何を大事にして活動していきますか

選手の時から「周りの人を元気にしたい、助けたい」という気持ちが一番のコアにあって。選手である間は自分中心に過ごさなければいけないので、やはり直接的な助けが出来なかった。今度からは得た知識をお返ししていける立場になるので、人様に楽しんでいただき、元気にするということを軸に、頑張っていきたいと思います。

ライター

1972年埼玉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、出版社に勤めながら、97年にライターとして活動を始める。2004年からフリー。主に採点競技(フィギュアスケート、アーティスティックスイミング等)やアイスホッケーを取材して雑誌やウェブに寄稿、現在に至る。

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