樋口尚文の千夜千本 第164夜『BOLT』(林海象監督)
オムニバスならではの意外なる掛け算
林海象監督が意外や7年ぶりに放つ新作は、3本の掌篇からなる80分ほどのオムニバス作品である。この間然するところなき長さもいいし、何より3本の取り合わせの妙を愉しめるオムニバスならではの魅力がある。
まず各篇の長さが恣意的なところも体裁ありきでなくてよいのだが、最も長く総尺の半分近くを費やして描かれる一話めが作品名と同じ『BOLT』。地震で機能不全に陥った原発建屋内で、ボルトが緩んだために放射能汚染水がだだ漏れになっている。そこで作業員が決死隊となって汚染の核心部へ乗り込み、その忌まわしいボルトを締めに行く。普通低予算映画でこんなシチュエーションは撮れないはずだが、高松美術館にあるヤノベケンジの作った原発建屋そのもののアートを活かして、なかなか緊迫感のある映像となっている。
もっとも3つの掌編すべてに主演して作品の軸となっている永瀬正敏や佐野史郎らによる決死隊は大きなスパナを持ってボルトを締めに行くので、物語はリアリズムよりも寓話的な意匠と誇張をもって語られるタッチだ。それだからこそ、このシチュエーションの本質的な怖さの炉心部にふれているという気もする。されどこのワンアイディアで一本の映画を持たせるのは難しいところだが、そこでオムニバスという形式が活きてくる。
2話め『LIFE』で、永瀬は原発事故による避難指定地区で亡くなった独居老人の家に遺品回収の作業員として赴く。年下だが作業員の先輩として指示する大西信満の、ちょっと神経質だがニヒルな感じがよく出ている。原発建屋の中で描かれたのはひたすら汚染水につかってプリミティブにボルトを締める作業だったが、この2話めでも永瀬が各部屋に遺された物やゴミの数々を黙々と探ってまわる営みだけで、ちょっと言葉を奪われるようなものまで発見するが、画面で展開するのは静謐な作業過程だけだ。だが、それだけの描写にあって、1話めの原発災禍による爪痕がなんとも荒涼たるかたちで輪郭づけられる。
この戦慄的な1話めとおぞましい2話めはある意味おさまりよき対をなしているが、3話めはちょっと軸をずらす感じで、ここで本作のオムニバスとしての妙味がぐんと引き立ってくる。3話め「GOOD YEAR」で、永瀬はあの濱マイクがおんぼろ映画館に棲息していたように古びた自動車修理工場で暮らしている。具体的に何年が過ぎたのかは明らかにされないが、社会はあの原発禍の恐怖を早々に忘れ始め、対策も遅々と進まぬなか、作業員たちは楽で安全な東京オリンピックの工事に流れている。原発にもう一度向き合う気持ちのある永瀬だが、すでに被曝量が規定値を超えていて現場が雇えない。
悶々と日々を過ごす永瀬のもとにおかしなきっかけで謎の女性(月船さらら)が現れる。なんともいえないやりとりを経て、永瀬にはどうやらその正体がわかったようだ。このあたりのことは観てのお楽しみとしたいが、不思議な余韻を残して女は姿を消す。折しも工場の「GOOD YEAR」の電飾がイカれて「GOD YEAR」になるのだが、はてさっきの女は救いの啓示であったのか、天上からの誘いだったのか……。
全話を通して描かれるのは、世に言う「3K」的な労働の現場の、その手先の末端にあるボルトであり、死者の手帖であり、謎のマシンである。しかしその寄って寄って狭められた限定的な世界観のなかで、「3K」的なモノと風景が詩的に(美的に?)さえ見えてくる。そして息詰まるような1話、2話に対してこの意表をつく3話の掛け算を試みたことで、本作の「詩性」はぐんと高みにあがった感じがする。まさにナマズに人魚を幻視するような、傷ましくも洒落たフィルム片である。