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【戦国こぼれ話】播磨など3ヵ国の守護を務めた赤松政則は、作刀の名人だったという話

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
赤松政則は、作刀の名人だった。(写真:アフロ)

 東京オリンピックの閉会式では、アニメ『鬼滅の刃』の主題歌『紅蓮華』が採用されており、まだまだ人気は尽きていないようである。ところで、播磨など3ヵ国の守護を務めた赤松政則は作刀で有名だが、ご存じだろうか。

■赤松政則と作刀

 赤松政則は、康正元年(1455)に誕生した。播磨など3ヵ国の守護を務めながら、若くして猿楽で才能を開花させるなど、優れた才能を発揮した。

 中でも注目すべきは、作刀だろう。

 文明14年(1482)、当時28歳だった政則は配下の薬師寺彦四郎に刀を与えた。政則が刀を打ったのは、現在の兵庫県姫路市に所在した守護所の坂本である。

 では、なぜ政則はわざわざ家臣のために刀を打ち、授けたのであろうか。

■政則が刀を与えた理由

 実はこの年の年末、領国の播磨には不穏な空気が漂っていた。室町幕府は政則に上洛を命じたが、もはや要請には応じられない状況だった。

 その翌年、但馬の山名氏が播磨に攻め込んで来たので、不穏な動きとは、山名氏の動静だったに違いない。

 つまり、政則は家臣との紐帯を高めるべく、自ら打った刀を与えたと考えられる。作刀は単なる趣味ではなく、領国統制、家臣統制の一環だった。

 当時の贈答とは、見返りを期待するものであり、決して「無償の愛」ではない。政則は配下の薬師寺氏に刀を授ける代わりに、自身への忠誠を誓わせたのだろう。

■友好関係にある武将にも与える

 このように、政則が刀を配下の者に与えた例は事欠かない。政則が刀を与えたのは家臣だけに止まらなかった。親交のあった武将にも与えている。

 長享3年(1489)8月、政則は尾張守護・斯波義寛の家臣で、尾張半国守護代の織田敏定に刀を与えた。政則と斯波氏は、友好的な関係にあった。

 当時、敏定は尾張で戦っていたが、のちに近江六角氏征伐に出陣した際には、政則の家臣・浦上則宗とともに戦った。このような友好的な関係によって、政則は敏定に刀を与えたのだろう。

■富裕だった政則

 政則が作った最後の刀は、明応3年(1494)12月のものである。この前年、政則は京都に6万貫(約60億円)という巨費を投じて、自邸を造作した。政則は、富裕だったようだ。

 刀を作ったとき、政則が在京していたのは明らかなので、京都の自邸で作ったと考えて差し支えないだろう。刀作りには、結構なお金がかかったようである。

 刀を自ら作る武将はあまり聞いたことがないので、政則は極めて特異な存在だったといえる。

 しかし、その後の政則は十分な権力を確立したとは言い難く、明応5年(1496)に播磨で亡くなった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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