批判の集中砲火を浴びてしまった『キャッツ』。ミュージカル映画とは、どう向き合うべきか
「グロテスクなデザインと慌ただしい編集で、不気味の谷へと転落していく。ほとんどホラー」(Los Angeles Times)
「すべての関係者にとって最も低レベルのキャリアになってしまった」(The Guardian)
2019年の末、北米など各国で公開された『キャッツ』は、数々の酷評を浴びてしまった。
1981年にロンドンのウエストエンドで開幕した「キャッツ」は、その後、ブロードウェイで当時のロングラン記録を樹立。日本でも1983年、劇団四季が新宿に専用の「キャッツ・シアター」を作って公演し、大きな話題を集めた。そして7000回以上という日本国内のミュージカル上演で最多記録を更新したのである。
まさにミュージカルの金字塔。当然、ハリウッドが放っておくわけはなく、1990年代には、スティーヴン・スピルバーグの製作会社、アンブリンのアニメーション部門のスタジオ(アンブリメーション)がアニメで映画化するプロジェクトなどもあった。これだけ世界的な人気の題材なら、当然、大ヒットを期待できる。ようやく2013年くらいに、「キャッツ」の生みの親でもある作曲家、アンドリュー・ロイド=ウェバーがユニバーサルと本格的な映画化をスタート。2019年のクリスマスシーズンに、満を持して完成させた。
監督は『レ・ミゼラブル』でも人気ミュージカルの映画化を成功させた、トム・フーパー。北米公開を年末に設定したということは、もちろん『キャッツ』はアカデミー賞も狙える作品という位置付けだった。しかし夏に公開された予告編での、人間の俳優と猫キャラが合体した映像が軽い炎上案件となり、その後、ユニバーサルは賞レースに対して『1917 命をかけた伝令』に力を入れる。『1917』は見事にアカデミー賞の中心的一作となった。
最新技術に頼らざるをえない葛藤
しかし、この「キャッツ」、現在のハリウッドで実写化するなら、このパターンの映像以外に考えられなかっただろう。実際に目にした瞬間は、たしかに変な意味で心をざわめかせる。ではたとえば、俳優をパフォーマンスキャプチャーして本物の猫に近づけた方がよかったのか? 『ジャングル・ブック』や『ライオン・キング』ならそれはアリだが、リアルな猫にしてしまうと、「キャッツ」の世界ではなくなるだろう。はたまた、舞台版と同じく猫風の衣装とヘアメイクでの「着ぐるみ」的キャラにすべきだったのか? CGが一般的ではなかった1980〜90年代なら、そうしていたかもしれない。
たとえば『オズの魔法使』を基にした1978年のミュージカル『ウィズ』では、マイケル・ジャクソンらがこのとおり、非人間キャラに衣装とメイクのみで変身。舞台ミュージカルの映画化は、これくらいのアナログ感がちょうどいい気も……。
しかし21世紀の実写映画として『キャッツ』を作るとなれば、CGを駆使したくなるのも理解できる。これはオリジナル作品を知っていれば、やや「無謀」な賭けだったと思う。今回の酷評に対して「期待が大きすぎたから」という論調も出ているが、それも違うのではないか? もともと実写化には「不安」が大きい作品だったのだから。しかし映像がもたらす違和感こそ、「キャッツ」のひとつの魅力でもあるだろう。
そもそも舞台版の「キャッツ」からして、「違和感」を武器に変えた作品である。1981年の初演時、人間以外のキャラクターしか登場しないミュージカルは、あまりに革新的だった。人間が猫の姿で歌い、踊る。ストーリーは、あってないようなもの。さまざまな猫キャラが、人間の苦悩を代弁して共感させる……なんて評価する人もいたが、多くの観客はパフォーマーの歌とダンス、舞台装置に魅了された。メインのキャラクターに1曲ずつが割り当てられ、ドラマというより、レビューの側面が大きい作品だ。まさに、ステージ向き。
映画版は、オリジナルでは脇役だったヴィクトリアという猫を「案内役」の主人公としてアレンジしているものの、もっとオリジナルからの飛躍があった方が映画らしくなったかもしれない。とはいえ、飛躍しすぎると舞台版のファンの期待に応えられない。トム・フーパー監督ら作り手の葛藤はよくわかる。その結果、「一キャラ一曲」という基本スタイルには忠実となり、全体の流れも映画というより、レビュー調となった。
異世界を受け入れやすいのは映画? 舞台?
今回の映画版『キャッツ』を観て、改めて感じるのは、「舞台」と「映画」、それぞれへの観客の向き合い方の違いである。
舞台では、猫の衣装をつけた俳優が歌って踊っても、それを「非日常」と受け入れやすい。生身の人間が目の前で演じていることで、むしろ異世界だと割り切らせるスイッチが、脳に働くのだろうか。一方の映画は、あくまでもスクリーンの中で展開し、そこは非日常のファンタジー世界でもありながら、観客は無意識にリアリティのセンサーを動かしてしまう。だからこそ、実写とCGの微妙な境界、いわゆる「不気味の谷」も感知してしまう。『キャッツ』は、その危険を覚悟せざるをえない作品なのだ。
基本的にミュージカルというジャンルは、舞台でも映画でも「非日常」の要素が大きい。その非日常的演出が、夢の世界、あるいはドラマチックな展開を導いていく。近年、舞台・映画の両方で成功を収めたミュージカル作品は『シカゴ』、『オペラ座の怪人』、『レ・ミゼラブル』などドラマ要素が大きい作品が目立つ。対して『キャッツ』は、T.S.エリオットの詩を原作にしたこともあって、曲以外の部分は「つなぎ」の役割が強い作品。だからこそ、「メモリー」などアンドリュー・ロイド=ウェバーの書いた曲の魅力が際立っているわけだが、舞台では俳優の生の歌が観客を本能的レベルで感動させる。映画でも、もちろん本人が歌ってはいるが、ライブ的な迫力や感動はどうしても薄くなってしまう。昨年末の紅白歌合戦で口パクの出場者から、明らかに「歌」が伝わってこなかったのと同じで、映画版のミュージカルがハンデを背負うのは事実である。
しかし映画版の『キャッツ』は、「聴きごたえ」という点では申し分がない。予想以上の仕上がりだったのは日本語吹替版だ。
実写になった違和感に、さらに日本語になる違和感が作用し、一周回って受け入れやすくなった感じもある。とくに抜きん出てすばらしい歌唱力を披露するのが、グリザベラ役の高橋あず美で、「メモリー」という曲がストーリーに説得力を与えるという、作品の核心部分を成功させた。日本で劇団四季版を観てきたファンにとっては、吹替版の方がなじみやすいはずである。世界で2カ国のみに許された吹替だが、日本では必須であったと納得してしまうはず。NYアポロシアターでも喝采を浴びた高橋が、この『キャッツ』をきっかけに大ブレイクすることに期待したい。
非日常のミュージカル映画を受け止めるためには、どこかで脳にスイッチが入ることが肝心で、映画版『キャッツ』の場合、オープニングのロンドンの夜景をバックにした猫たちの群舞でスイッチが入れば、冒頭で書いた酷評はほとんど気にならない。
徹底的に非日常の世界で、表現自体もミュージカルという極端に非日常のジャンル。しかも舞台以上に、どこかにリアリティを要求される映画。これほどハードルの高い今回のチャレンジは、成功とは言えなくても、そして素直にエンタメとしては楽しめなくても、さまざまに考えが広がるという意味で、この『キャッツ』を体験する価値があるのではないか。
『キャッツ』
1月24日(金)より、全国ロードショー
配給:東宝東和
画像すべて:(C) 2019 Universal Pictures. All Rights Reserved.