【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦前夜。毛利輝元ら諸大名はいかにして徳川家康に屈してしまったのか
『戦国無双5』の主要なキャラクターに毛利輝元が加わったという。輝元ら諸大名は関ヶ原合戦前夜における、西軍の重要な人物だったが、いかにして徳川家康に屈してしまったのか確認することにしよう。
■石田三成の失脚
慶長4年(1599)閏3月に石田三成が七将の訴訟により失脚すると、徳川家康は有力大名に誓書を送り、互いの親密な関係を確認した(従来説の七将が三成を襲撃したという説は誤り)。その例をいくつか見ておきたい。
同年閏3月、家康は毛利輝元に対して、「今度の天下の儀(三成の失脚)、それぞれに申し分があるでしょうが、秀頼様に対して疎略な態度を取らないのがもっともなことです。そのようなことで、今後いかなることが起こっても、貴殿(輝元)に対して、裏切りの気持ちがなく、兄弟のごとき関係であることをお伝えします」という内容の起請文を送った(「譜牒余録」)。
三成と輝元は良好な関係にあったが、その事実は家康も十分承知していたことであろう。三成の事件が解決したのち、家康は互いの関係を維持するため、輝元にすかさず誓書を送ったのである。
■家康に屈した島津氏
同様のことは、薩摩の島津氏にも行われた(「薩藩旧記後編」)。家康は島津義弘・忠恒(家久)父子に誓書を送った。要点は、次のとおりである。
①秀頼に対して疎略な態度を取らないこと。
②家康自身が島津氏に疎略な態度を取ったり、裏切りの気持ちがないこと。
③佞人が両家の間を妨げるようなことがあった場合は、互いに直接話し合うこと。
毛利氏も島津氏も西国の大規模な大名であるが、家康が厚誼を結ぶため、実質的な豊臣政権の主宰者である豊臣秀頼を拠り所にしているのが注目される。
今後の政治的な展開を考慮すれば、家康はいたずらに強敵と軍事的な衝突を繰り返すのは無意味であると考えたのだろう。将兵などを消耗するだけである。
むしろ、家康は有力な諸大名と良好な関係を築くことにより、自らの権力基盤を固める方策を採用した。とりわけ大規模な大名に対しては、より慎重にならざるを得なかったと推測される。
■家康に忠誠を誓った伊達政宗と細川忠興
一方で、逆に相手から家康のほうに起請文を差し出す場合もあった。東北の有力大名の一人・伊達政宗が該当する。それは、慶長4年(1599)4月5日のことだった。起請文の内容は、次のように要約できる(「伊達政宗記録事績考記」)。
①家康に対して、裏切りの気持ちがないこと。
②機密事項を他言しないこと。
③今後いかなることがあろうとも、家康に命を捧げ奉公すること。
政宗は、秀吉の時代から旗幟が不鮮明なところがあった。ところが、今回に限ってはいち早く「親家康」という態度を鮮明にし、家康に擦り寄ったのである。
やや時間を置いた同年11月、細川忠興も家康に起請文を捧げている(「細川家記」所収文書)。一条目は秀頼を取り立てた上で、家康・秀忠父子を疎略に扱うことがないとし、二条目で親類縁者に至るまで家康に背くことなく、命令に従うことが明記されている。細川忠興もまた、最初から家康与党だった。
■老練だった家康
このように、家康は形式的には秀頼を立てているが、内実は家康への絶対服従を求めたと考えられよう。秀頼が健在とはいえ、家康は少しずつ諸大名を与党として引き入れ、豊臣政権における確固たる支持を得ようとしたのだ。
家康は有力な諸大名よりも老練で、豊臣政権内で大きな発言権を有するようになった。家康はこうして多数派工作に成功し、関ヶ原合戦で勝利を収めたのである。