【大河ドラマ鎌倉殿の13人】北条泰時が災害に苦しむ民衆に示した「神対応」
建仁元年(1201)、北条泰時は源頼家(源頼朝の後継者)が蹴鞠に耽ることに直接ではないとしても苦言を呈します。しかし、その苦言はまわり回って、頼家に届いてしまうのです。頼家は、泰時が父(北条義時)や祖父(北条時政)を差し置いて、自分を諌めるとはけしからんと不愉快に。
親清法眼は、泰時に伊豆国北条に暫く下向することを勧めますが(10月2日)、泰時は偶然、伊豆に所用があり、同地に赴くことになるのです。10月3日の早朝、泰時は言葉通り、鎌倉から伊豆に出立します。そして2日後に伊豆国北条に到着。
同地は昨年、収穫が少なく、飢饉となっていました。建仁元年の春には、農民たちは、種もみが足りずに困窮。数十人が連名で嘆願書を提出していたのです。よって、貸借米50石を与えてました(『吾妻鏡』)。
その返済期限は、本年の秋でしたが、先月(9月)に台風が襲来したことにより、土地は大いに損亡。餓死者が出かねない状況となります。返済すべき米が返せない者は、責められるのを恐れ、逃亡しようと考えるほどでした。
泰時が前々から、伊豆に下向しようと思っていたのは、この事が理由だったのです。つまり、民衆の困苦を救済するために戻って来たのです。泰時が伊豆に着いてやったことは、負債者を呼び集めて、彼らの前で、借用証文を焼いたこと。そして「今後、豊作となったからといって、調査して返済させることはしない」と伝達したのでした。
それだけでなく、酒や米を民衆に分与したのです。民衆は大いに喜び、泣きながら退出していきました(酒や米は前もって準備させていたもののようです)。泰時の「神対応」に民衆は感激したのです。