Yahoo!ニュース

元祖“サン・オブ・ストロングスタイル”昭和のプロレスラー木戸修がリングに残した功績について考えてみる

清野茂樹実況アナウンサー
アントニオ猪木のタッグパートナーも務めた木戸修(写真:東京スポーツ/アフロ)

今月11日に元プロレスラーの木戸修が73歳でこの世を去った。木戸の経歴や人柄を紹介する追悼記事は見かけるものの、レスラーとしての功績、影響を紹介したものは少ない気がするのは筆者だけだろうか。「闘うダンディズム」「いぶし銀」と言われた男が現役を引退したのは、今から22年も前であり、知らない世代が多くて当然。プロゴルファー木戸愛の父としても知られる木戸修が、リングに残した功績について考えてみたい。

新日本プロレスの旗揚げに参加

まず、木戸修というレスラーを語る上で最初に挙げなければならないのは、新日本プロレスの旗揚げメンバーであるということだ。リング上の事故でけがを負った兄の意志を継ぐ形でプロレスラーを目指した木戸は、日本プロレスでデビューしたものの、会社を追放されたアントニオ猪木に追随して新団体に参加したのである。猪木の付け人としては当然の判断だったかもしれないが、数少ない所属選手のひとりとして、旗揚げ当初から新日本プロレスを支えた功績はあまりに大きい。

神様の最後の対戦相手

そして、木戸にとって最大の理解者が、“プロレスの神様”カール・ゴッチであった。日本プロレス時代から多くの日本人選手を指導してきたゴッチは、練習熱心な木戸のことを「マイ・サン(息子)」と呼び、かわいがったことはあまりに知られた話である。そんなゴッチの現役最後の対戦相手を務めたのが、他ならぬ木戸だ。1982年1月にレスラーとして新日本プロレスのリングに上がったゴッチの得意技、ジャーマンスープレックスホールドに見事な受け身を取って、神様を光らせたのである。

UWFのイメージ構築への貢献

そんな木戸の存在が注目されるようになったのは、UWFへ移籍後の1985年。藤原喜明やスーパー・タイガー、前田日明らを抑えて「格闘技ロードリーグ戦」を制したのがきっかけである。これは同団体が格闘技路線に舵を切った最初のリーグ戦であり、新日本プロレスでは前座だった木戸が優勝したことによって、UWFは実力主義であるとのイメージをファンに与えることに成功したのであった。なお、木戸は新日本プロレスに復帰後は前田とのコンビでIWGPタッグ王者を獲得、この試合で勝利を手に入れた技こそが「キド・クラッチ」である。

名選手を育成

さらにもうひとつ、指導者としての実績も忘れてはならない。2001年に51歳で引退した木戸はしばらく新日本プロレスの道場でコーチを務め、昭和式のトレーニングを若手たちに叩き込んだ。この時期に育成されたのが矢野通、中邑真輔、田口隆祐、後藤洋央紀らであり、彼らがトップに立った2010年代から同団体の人気が上昇したことを考えると、木戸の貢献度の高さがよくわかる。亡くなる前日にあたる今月10日の熊本大会に出場した田口がキド・クラッチで勝利したのは、何かの巡り合わせだったのだろうか。

以上が筆者の考えるレスラー・木戸修の功績である。これで、アントニオ猪木、山本小鉄、木戸修、藤波辰爾(藤波辰巳)、柴田勝久、北沢幹之(魁勝司)という新日本プロレスの旗揚げメンバー6人のうち、健在なのは、藤波と北沢の2人のみとなった。令和も5年が過ぎ去ろうとする中、いよいよ昭和のプロレスが遠ざかっていくことを感じずにはいられないのである。

※文中敬称略

実況アナウンサー

実況アナウンサー。1973年神戸市生まれ。プロレス、総合格闘技、大相撲などで活躍。2015年にはアナウンス史上初めて、新日本プロレス、WWE、UFCの世界3大メジャー団体の実況を制覇。また、ラジオ日本で放送中のレギュラー番組「真夜中のハーリー&レイス」では、アントニオ猪木を筆頭に600人以上にインタビューしている。「コブラツイストに愛をこめて」「1000のプロレスレコードを持つ男」「もえプロ♡」シリーズなどプロレスに関する著作も多い。2018年には早稲田大学大学院でジャーナリズム修士号を取得。

清野茂樹の最近の記事