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病気だった徳川家康が激昂して、診察した侍医を流罪にしたワケ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康は鯛の天婦羅を食べて食中毒になったという。(写真:イメージマート)

 今年の大河ドラマ「どうする家康」では、最終回で徳川家康の臨終の場面があまり詳しく描かれていなかった。晩年、病に苦しんでいた家康は、侍医の片山宗哲から治療について助言されると激昂し、流罪にしたという。その理由について、考えてみることにしよう。

 元和2年(1616)4月17日、徳川家康は駿府城で生涯を閉じた。享年75。死因は、鷹狩りの際に食べた鯛の天婦羅による食中毒であるといわれている(胃ガンで亡くなったという説ある)。

 その間、家康の病の平癒を願い、加持祈祷が行われ、侍医の片山宗哲が用意した薬を服用して回復に向かうこともあった。しかし、そうした努力も効果がなく、ついに家康は帰らぬ人になったのである。

 家康を診察した宗哲について、もう少し触れておこう。宗哲が誕生したのは天正元年(1573)であり、のちに叔父で医者の片山宗僊の娘婿になった。その後の宗哲は、医師の一鴎宗虎から医術を学び研鑽を積んだ。

 宗哲が宗虎の推挙により、家康の侍医となったのは慶長7年(1602)のことである。名医だった宗哲は、家康やその家族の治療を行い、厚い信頼を得ていたという。

 実は、食中毒で苦しんでいた家康の病状が悪化したとき、薬師衆が薬を調合し服用させたが、あまり効果がなかったという。そこで、周囲はお灸を据えることを勧めたが、家康は嫌がった。

 すると、宗哲が家康の服用していた薬について意見をしたという(「亘理文書」)。意見の内容は詳しく書かれていないが、家康が服用していた薬が良くないと言ったのだろう。

 『寛政重修諸家譜』によると、家康は腹の中に「寸白の虫」(サナダムシ)がいると自分で診断し、「萬病圓(まんびょうえん)」を服用していた。これを諫めたのが宗哲で、「大毒の薬でもって治癒しようとすれば、かえって病状が悪化する」と忠言したのである。

 にもかかわらず、家康は「萬病圓」を服用し続けたが、効果はなかった。そこで、秀忠が薬師衆に対して、家康に「萬病圓」を服用しないよう言ってもらえないか相談したが、尻込みして注意する者はいなかったという。

 秀忠の命を受けた宗哲は、家康に「萬病圓」を服用しないよう再び忠言した。すると、家康は大いに機嫌を損ね、宗哲を同年3月に信濃国高島(長野県諏訪市)に流したというのである。家康は医師も驚くほどの薬の知識があったので、助言に対して憤慨したのだろう。

 ただし、宗哲の本領は安堵したままだった。宗哲が許されたのは、元和4年(1618)4月のことである。その後も宗哲は徳川家に仕え、元和8年(1622)に亡くなったのである。

主要参考文献

宮本義己「家康の性格と健康法」(『徳川家康のすべて』新人物往来社、1983年)

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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