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中世から続いていた、地方病と人々の戦い⑩

華盛頓Webライター
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人類の歴史は病気との戦いの歴史と言っても過言ではありません。

日本においても甲府盆地にて地方病が蔓延しており、地方病との戦いは山梨県の歴史に大きな比重を占めているのです。

この記事では地方病との戦いの軌跡について引き続き紹介していきます。

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中世から続いていた、地方病と人々の戦い⑨

高度経済成長とともに減っていった地方病

1944年に6,590人を記録した保卵者数は、1960年代から1970年代初頭にかけて急激に減少しました。

この劇的な減少には、コンクリート化や殺貝剤の使用に加え、複合的な要因が影響していますが、それらの要因は必ずしも地方病対策のためだけに意図されたものではありません。

高度経済成長期における生活環境の変化や都市化が、結果として日本住血吸虫の撲滅に寄与したのです。

第1の要因として、戦後の甲府盆地での産業転換による土地利用の変化が挙げられます。

かつて稲作が中心だった甲府盆地中西部では、モモやサクランボ、ブドウなどの果樹栽培が進み、水田が減少しました。これにより、ミヤイリガイの生息地が狭まり、生息が困難になったのです。この現象は特に釜無川右岸地域や甲府市東部から旧石和町南部にかけて顕著でした。また、中央部でも宅地開発や工業団地の造成が進み、水田が姿を消していったのです。

第2の要因は、農耕の機械化です。水田の減少に加えて農業の機械化が進行し、農作業用の家畜がほとんど姿を消しました。

これにより、ウシなどの家畜の糞便に含まれる虫卵が激減し、感染源が減少したのです。

さらに、肥料も自給肥料から化学肥料へと転換され、虫卵が感染源となるリスクが物理的に回避されるようになりました。

第3の要因として、合成洗剤の普及があります。

昭和40年代、甲府盆地では合成洗剤の排水が下水道整備の遅れもあって、自然に垂れ流されていました。

これは一見問題のように思われますが、合成洗剤にはセルカリアを殺傷する効果があり、日本住血吸虫の撲滅に貢献したのです。

1982年の久留米大学教授、塘普の実験では、一般家庭で使われる濃度の洗剤でセルカリアが5分以内に死滅することが確認されています。

これらの要因の中で、果樹栽培への転換は特に甲府盆地の農業形態に大きな影響を与えました。

かつて水田が広がっていた地域は、果樹園へと姿を変え、現在の甲府盆地特有の景観を形成することになったのです。

1952年には養蚕業の拡大が進められましたが、1958年に生産過剰が問題となり、山梨県はブドウやモモなどの果樹栽培を新たな県のブランドとして推進しました。

これにより、甲府盆地全体で果樹園が広がり、ワイン製造や観光地化が進展したのです。

このようにして、地方病対策と相まって農業の転換が進み、1960年代には新規感染者の減少が顕著になりました。

特に1966年以降の調査では、保卵者の大部分が35歳以上となりました。こうして、地方病は次第に過去のものとなっていったのです。

地方病との戦いに勝利

credit:paxabay
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1978年、山梨県韮崎市での急性日本住血吸虫症感染の確認を最後に、新たな感染者は確認されなくなりました。

また、感染源であるミヤイリガイも、セルカリアに感染・寄生された個体は発見されなくなり、哺乳動物への感染も1983年を最後に途絶えたのです。

これらの事実から、甲府盆地における日本住血吸虫症、いわゆる地方病は1980年代前半に終息したとされています。

1985年には、虫卵抗原に対する抗体陽性者の平均年齢が60.6歳に達し、保卵者数の減少と抗体陽性者の高齢化が顕著となりました。

そして、1990年から3年間にわたる甲府盆地の児童・生徒4,249名を対象とした検査でも、全員が陰性だったのです。

これらの結果を受け、1995年、山梨地方病撲滅対策促進委員会は「地方病の流行は終息し、安全である」との中間報告書を山梨県知事に提出し、翌年、山梨県議会でも「再流行の可能性はほとんどない」と議決されました。

これを受け、1996年2月19日、山梨県知事天野建は地方病終息宣言を行い、1881年から続いた地方病問題に終止符が打たれたのです。

ただし、これは日本住血吸虫の撲滅を意味しますが、中間宿主であるミヤイリガイが完全に消滅したわけではありません

ミヤイリガイが存在する限り、輸入ペットや外国人保卵者などを介した再流行の危険性は完全には排除されていないため、山梨県では2010年現在もミヤイリガイの生息調査や監視活動が継続的に行われています。

また、小中高生を対象とした地方病の検診や、ミヤイリガイ生息地のGPSによる定点観測、リスクマップの作成などの取り組みも続けられているのです。

一方で、千葉県小櫃川流域でもミヤイリガイの生息が確認されており、1986年の調査ではかつて日本住血吸虫症が流行していたことが判明しました。

日本国内の複数の大学や研究施設では、ミヤイリガイと日本住血吸虫が厳重に管理されながら飼育され、皮内反応診断に必要な抗原の製造に役立てられています。

こうして、古くから謎に包まれていた地方病は解明され、多くの医師や研究者の努力によって日本国内では撲滅されました。

しかしミヤイリガイがなぜ特定の地域にのみ生息していたのかという疑問は、いまだ解明されていません。

この疑問に関しては生物学や地理学など、さまざまな観点からの研究が続けられていますが、この謎は依然として残っています。

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