樋口尚文の千夜千本 第202夜 『キリエのうた』(岩井俊二監督)
声なき歌姫がアクティブ化する青春大河ロマン
岩井俊二監督は非商業的俳優の歌姫を幾度も甘美な疼痛のニュアンスとともに活かしてきたが、本作のアイナ・ジ・エンドもまた岩井監督の世界観を絶妙に体現する鉱石だ。ただしCHARAの場合がそうであったように、アイナ・ジ・エンドがどんな映画にもはまる才能かといえばそうではなくて、岩井作品の求める独特な虚構感には余りにもぴったりな個性なのだ。逆に言えば、岩井監督は言葉にはし難い「岩井作品らしさ」をアイナ・ジ・エンドを通して輪郭づけてもらっているようにも見える。
なにしろ歌というかたちでなければ発声できないという少女を誰もかれもが演じ得るはずはない。アイナ・ジ・エンドはさまざまな持てるニュアンスによってその困難な設定を具現化しているが、まさにそのことによってかなり独特な虚構性に占められた本作自体が起動し得ているのだ。そして岩井監督は、アイナ・ジ・エンドという存在が有効にしてくれた岩井作品ならではの「ゲームの規則」をもって、他の監督が撮ろうものならまるでご都合主義にしか見えなくなったかもしれない特異な青春大河ロマンをかなり蠱惑的に見せきった。
3時間という総尺を聞いた時には不安も感じたが、(詳述は避けるけれども)こうした岩井流の「ゲームの規則」に乗っかってしまうと、そんなご都合主義めいたところが高ずるほどむしろ魅力的に見えてくるから不思議だ(同じレベルの長尺だった『リップヴァンウィンクルの花嫁』も然りだが)。それは独自の世界観をもって強烈に完結している少女マンガにおいて、さまざまな物語上の飛躍が許され、むしろその無理な部分が味な特徴とさえ受けとめられ出すことにも似ている。そのゆえに、本作は作劇から映像のトーン・アンド・マナーに至る「ゲームの規則」、言わば「岩井節」のよどみなき語りの妙を愉しむ作品であって、そこに通り一遍のリアルさや整合性を求めるのはもはや野暮……と観る者を観念させる域にある。そういった技巧と押しに、ちょっとこれは凄いなと私は瞠目させられた。
そして、そんな「岩井節」をアクティブ化しているアイナ・ジ・エンドは、現れる人物たちの「踏み絵」のような存在として物語の軸になっているわけだが、それでいて彼女自身が強烈に何かを発するというよりも、多彩で個性的な登場人物たちを粒だたせる役割なのだった。そんな次第で際立った周囲の人物たちのなかで、特に印象深いのが広瀬すずだ。どんな役柄なのかはあえてふれないが、そのノリで生きている浮草のような雰囲気、不自然な明るさ、彼女の周辺にたちこめる胡散臭い人間関係の描写(松浦祐也の扱いも出色)などは本作のなかでも特に鮮やかであった。