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夢を持ち続けたからこそ掴めた勲章がある。白井勝太郎、24年間の体操人生

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター
2020年12月、全日本体操種目別選手権あん馬で3位になった白井勝太郎(写真:松尾/アフロスポーツ)

■現役ラストの演技で初の表彰台

「一貫した目標や夢を持ち続けると、花開くこともできるんだ」

 そんな実感をしみじみと味わいながら、現役生活を終えた体操選手がいる。

 1月31日、コナミスポーツ体操競技部で2018年からキャプテンを務めた白井勝太郎が24年間の体操人生にピリオドを打った。

「遅咲きでした。全国中学生大会には出ていません。インターハイも20番ぐらいでした」

 だが、中学の頃にアテネ五輪を見て灯った情熱の炎が消えることはなかった。日体大に進んで内村航平をはじめとするトップレベルの選手と出会って実力を伸ばし、2014年には仁川アジア大会の日本代表メンバーに選ばれ、団体総合金メダルに輝いた。

 それから6年。思い通りに成績が伸びない時期もあり、2019年10月には右ひざ前十字じん帯断裂の大けがを負った。

 必死のリハビリを経て臨んだ2020年12月の全日本種目別選手権。ここに思いもよらぬご褒美が待っていた。あん馬で3位になり、とうとう個人種目で初めて全国大会の表彰台に上がったのだ。そして、これが現役生活最後の演技となった。

 体操の指導者である両親の間に生まれ、5歳で横浜市文化体育館(2020年閉館)の体操教室に通い始めてから24年。

「小さい時は何もできない子どもでしたが、それでもここまで来られました。これからは未来を見据えた体操の指導をしていきたいと思っています」

 今後、コナミスポーツで社業に携わるための研修期間を過ごしている白井を取材した。

2020年全日本種目別選手権決勝。これが現役最後の演技となった
2020年全日本種目別選手権決勝。これが現役最後の演技となった写真:松尾/アフロスポーツ

■右ひさ前十字じん帯断裂から復活

 それまで大きなけがをしたことのなかった白井をまさかの悲劇が襲ったのは19年10月。翌11月にある全日本団体選手権のメンバーを決めるための部内の試技会で、つり輪の降り技を失敗し、右ひざ前十字じん帯を断裂する大けがを負った。

 当時28歳。けがをする前は、東京五輪が開催されるはずだった2020年を最後に現役生活に一区切りをつけようと心の中で決めていた。ところがそれを誰かに言う前にけがをしたことで、考えが変化した。

「このままでは終われない」

 引退に思いを巡らせることをいったん取りやめ、1年後(2020年)の全日本団体選手権を目標とすることにし、12月に手術を受けた。

 すると今度は新型コロナウイルス問題が世界を襲った。リハビリに励んでいる最中に情勢が悪化して東京五輪の1年延期が決まり、体操の国内大会もことごとく中止や延期が決定。目標としていた2020年の全日本団体選手権は中止となった。白井の選手生活のプランニングも、コロナ禍の影響でどんどん変わっていった。

 右ひざの手術から半年あまりがたった昨年7月上旬。秋以降の試合復帰スケジュールについてコーチ陣と話し合いをし、白井は9月に開催されることが決定した全日本シニア選手権の種目別あん馬のみに出場することを決めた。ひざの負担の少ないあん馬だけは練習をできていた。

「全日本シニア選手権の後には、4月から12月に延期された全日本選手権もありましたが、昨年7月の段階では先行きがわからず、全日本選手権そのものがなくなってしまう恐れもありました。それならば、開催が確定している全日本シニアに出たい。そう思って決めました」

 あん馬1本に絞った白井は、演技構成の難度をそれまでのDスコア5・8から6・3に上げて全日本シニア選手権に臨んだ。結果的には降り技でミスが出てしまい、12月の全日本種目別選手権の出場権を得ることができなかった。

 しかし、ここで諦めるわけにはいかない。一縷の望みをかけてビデオ審査に挑戦。すると、ビデオ審査枠6つ中の6番目の点数で全日本種目別選手権の出場資格を得ることができた。

 ここから“快進撃”が始まった。12月の全日本種目別選手権を最後に引退する決意を固めた白井は、予選で会心の演技を披露した。演技が終わると小さくガッツポーズ。あん馬に歩み寄り、「ありがとう」と言った。

 種目別選手権にはスペシャリストたちがひしめく。世界選手権メンバーにもあん馬を得意とする選手は多い。だから「予選が最後の演技になると思っていた」のだ。

 ところが上位候補勢にミスが相次ぎ、14・533の白井は6位通過で決勝に進んだ。そして決勝では予選を上回る出来栄えでEスコアを0・1上げ、14・633。見事3位になった。

「最初はスペシャリストたちの中に入って演技するのがおこがましいくらいだと思っていました。でも、覚悟を決めたからなのか緊張することもなく、本番ですごい力を出すことができました。表彰台に上がったのは、うれしさよりも驚きの方が大きかったです」

 ビデオ審査でぎりぎり出場権をつかみ、運もあって予選を通過し、決勝の舞台というボーナスを得て、気が付けば表彰台にたどりついたのだった。

2016年全日本種目別選手権決勝に健三(右)とともに出場
2016年全日本種目別選手権決勝に健三(右)とともに出場写真:YUTAKA/アフロスポーツ

■体操一家に生まれて

 両親が指導者である体操一家に育った。両親は白井が大学生だったころに体操クラブを立ち上げて現在は経営者となっているが、もともとは教師。白井は、「大学生になっても社会人になっても試合の後にあれこれ言われてイヤでした」と苦笑いしながら、「でも、体操に出合わせてくれたのも両親ですし、いつも応援に来てくれていたのも両親。両親がいなければ今の自分はいません」と感謝する。

 6学年下の弟・健三からはさまざまな刺激を受けた。当時高校2年生だった健三が初めて世界選手権の日本代表になった2013年は、白井がコナミスポーツに入社した1年目。

「その当時、ゆかだけなら健三はずば抜けていましたが、個人総合なら僕の方が上にいました。健三が世界選手権代表に決まったことで負けていられるかという思いにもなりました」

 健三の大活躍に刺激を受け、翌2014年のNHK杯で9位になり、アジア大会代表になった。ところが、選手紹介時の決まり文句は「白井健三の兄」。

「自分も日本代表なのにそれかよという感じで、そこでも悔しさを感じました。でも今は違います。ここ数年、健三はルール変更やケガなど、色々なところで悩んでいたと思いますが、健三なら上がってくるのだろうと思いながら自分も練習に励んでいました。健三も僕にとってなくてはならない存在です」

 次男の晃二郎さんは一足早く2017年に引退し、現在は両親が経営する鶴見ジュニア体操クラブでコーチをしている。2017年に国際審判の資格を取得。その中でも高ランクの資格取得者である。

「晃二郎は3人の中で一番体操が好きなんじゃないかな。全国で何人かしかいないランクの審判資格を持っているのでこれからが楽しみです」

両親はどこにでも応援にきてくれた(2014年、韓国での仁川アジア大会にて。撮影:矢内由美子)
両親はどこにでも応援にきてくれた(2014年、韓国での仁川アジア大会にて。撮影:矢内由美子)

■「諦めなければ何でもできる」

 体操一色の人生を歩んできた白井。研修期間を終えた後の配属先は調整中とのことだが、いずれにせよ、体操にかかわっていくのは変わらない。

「僕は本当に体操が大好きですから、オリンピックや世界選手権で日本が優勝している姿を今後も見たい。自分がそこにどう貢献できるか。まずは『体操が好き』『体操をもっと上手くなりたい』という子どもたちが増えるような環境を作ってあげたいです」

 29歳で初めて個人戦の全国大会の表彰台に上がったという経験も、指導者としての強みになると考えている。

「諦めなければ何でもできると思います。体操で学んだのは毎日コツコツ積み上げることの大切さ。それと、けがをした後の最後の一年間は、自分を信じてあげることの大切さを知りました」

 夢を持ち続けることの大切さも実感として持っている。

「中学生のころにアテネ五輪を見て、自分もオリンピックで金メダルを取りたいという夢を抱きました。体操人生には困難もありましたが、モチベーションを保ってこられたのは夢があったからであり、目標があったから。だから、中学生や高校生で今、結果が出てない子どもたちも夢を大きく持って欲しい。そういう意味で、オリンピックはたとえテレビで見るだけということになっても開催してもらいたいです。それを見て心を動かす人もいると思うんです」

 この春、新たな一歩を踏み出すその目は、しっかりと未来を見据えている。

「朝起きてスーツを着て会社に行くときに引退したのだな、と感じます」と話す。1月26日に長男が生まれ、新スタートへのモチベーションがいっそう高まっている様子(撮影:矢内由美子)
「朝起きてスーツを着て会社に行くときに引退したのだな、と感じます」と話す。1月26日に長男が生まれ、新スタートへのモチベーションがいっそう高まっている様子(撮影:矢内由美子)

◇白井勝太郎(しらい・しょうたろう)◇

 1991年3月23日、神奈川県生まれ。高校教員だった両親の間に生まれ、5歳で体操を始める。弟2人も体操選手という体操一家の長男として育ち、2013年にコナミスポーツ入社。個人総合の最高成績は社会人2年目だった2014年NHK杯の9位。あん馬で3位になる前の全日本種目別選手権での最高成績はゆかの4位(3度)で、すべて社会人になってからのもの。家族は妻と1月26日に誕生した長男。

サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

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