「平成」はどのようにして生まれたのか
13日、天皇陛下が、天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を宮内庁の関係者に示されていると報じられた。
宮内庁はその報道を否定しているが、もし本当に譲位された場合、当然元号も「平成」から新しいものに変わることになる。
では、「平成」という元号は誰の発案で、どのような経緯で決められたのだろうか。
「平成」決定の経緯
2015年4月5日にTBSで放送された『テレビ史を揺るがせた100の重大ニュース』では、その経緯が詳しく解説されていた。
1989年1月7日、昭和天皇崩御の日、総理官邸に8人の有識者が集められた。
マスコミ界や教育界など各回を代表する人物たちだ。
それが「元号に関する懇談会」。
その会議は厳かに進められたという。彼ら一人ひとりに賞状盆に用意された白い封筒が配られる。
その中に収められたのが3つの新元号案だった。
「正化」(せいか)、「修文」(しゅうぶん)、そして「平成」。
そしてそこにはその出典や意味が添えられていた。
「正化」の出典は『易経』。その意味は「重なる明るさが正しいことについてこそ天下の万物を成育させ成長させることができる」。
「修文」の出典は『書経』。「武をやめて文化を収める」という意。
「平成」の出典は『史記』と『書経』。「内平かに外成る 及び 地平かに天成る 国の内外にも天地にも平和が達成される」という意味だった。
一方で、この懇談会でも考案者の名前は伏せられていた。
実はこれらの元号案の選定は数年前より極秘裏に進められていた。
その中心的役割を果たしたのは1985年から内閣内政審議室長に就任した的場順三だ。
『テレビ史を揺るがせた100の重大ニュース』はこの的場氏の証言を元に構成されていた。
的場によれば、漢学・国文学など日本を代表する4人の学者に元号の考案を依頼したという。
その主な条件とは以下のとおりである。
・漢字二文字
・書きやすく読みやすい
・企業名や地名などに使われていない
・国内はもとより、中国や韓国など国外でも元号として過去使われていない
それぞれの元号案は郵送で届き、10案以上が集まった。
最終的に3案に絞ったのは、1月6日から7日にかけてだった。
それが上記の「正化」、「修文」、「平成」だった。
政府の中でも「平成」が第一候補だったという。
その理由を的場は「2つある」と語っている。
「正化」、「修文」もアルファベットに略すとともに「S」になる。これでは昭和と同じになってしまい混乱を招きかねない。
有識者が集まった「元号に関する懇談会」でも満場一致で「平成」が支持された。
これを受け、全閣僚会議が開かれ、その最終案が了承された。
そして1月7日午後2時18分、政府の新元号案に「平成」が内定。
ただちに天皇陛下に上奏され、新元号が「平成」に正式に決定した。
同日午後2時36分、小渕恵三内閣官房長官(当時)が記者会見を開き「新しい元号は、『平成』であります」と、「平成」と書かれた書を掲げ発表された。
ちなみに小渕恵三が掲げたこの「平成」の書は、現在、国立公文書館に保管されている。
だが、数年前まで別の場所で保管されていたという。その真相も、同番組で明かされている。
スタジオにゲスト出演していたDAIGOの証言である。
DAIGOは竹下登の孫である。つまり時の総理大臣だった竹下登のもとに保管されていたのだ。
「平成」の考案者は誰だったのか
では、「平成」は誰が考案したものだったのだろうか。
その事実は長く明かされていなかった。とは言っても実際には『文藝春秋』2009年3月号に掲載された佐野眞一による『ドキュメント昭和が終わった日2 元号「平成」の決定の瞬間』などで状況証拠が揃えられ推定されていたが、明確な証言がされたことはなかった。
だが、『テレビ史を揺るがせた100の重大ニュース』で、新元号決定の中心的役割を果たした張本人である的場順三がついにその考案者を明言した。
山本達郎は東京大学名誉教授で、中国や東南アジアの文学に精通した東洋史学者だった。
国外で使われた元号も使えなかったため、彼の東洋史の知識は政府にとって大きな力になったという。
山本は、1998(平成10)年に文化勲章受賞。
その3年後の2001(平成13)年、心不全により死去した。
山本達郎は、自分が「平成」を考案したことを最期まで決して明かさなかった。