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大変気になる。敗戦後、牢人になった戦国武将の就職事情とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 近年は新卒採用も活発で、初任給が上昇しているという。戦国時代の武将は戦いに敗れると、牢人となって就職活動をした。その事情について考えてみよう。

 慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦後、負けた西軍から大量の牢人が発生した。以下、これまであまり取り上げられなかった牢人たちの就職活動を見てみよう。

 大坂の陣で豊臣方に与した人物として、仙石豊前(秀範)がいる。秀範は、仙石秀久の次男だった。父の秀久は東軍に属し、徳川秀忠の軍勢に加わった。

 秀忠は上田城で食い止められて遅参したが、秀久は徳川家康(秀忠の父)にうまく弁明を行った。そのこともあって、のちに秀久は秀忠から但馬出石に5万8千石を与えられた。

 ところが、子の秀範は西軍に与したため、関ヶ原合戦以後は牢人にならざるを得なかった。仙石家の家督は、秀範の代わりに弟の忠政が跡を継ぐことになった。

 『大坂御陣山口休庵咄』によると、牢人生活を送る秀範は、現在の京都市中京区付近で私塾を開業して糊口を凌いでいたと記されている。つまり、仕官することができず、牢人生活を送っていたのである。

 大名クラスの地位にあった者としては、氏家行広がいる。行広は、美濃斎藤氏の配下にあった西美濃三人衆の1人・氏家卜全の子として誕生した。

 斎藤氏滅亡後は織田氏に仕え、のちに豊臣秀吉の配下となった。天正18年(1590)の小田原北条氏との戦いで軍功を挙げ、伊勢桑名に2万2千石を与えられた。

 しかし、関ヶ原合戦では西軍に与して敗北すると、以後は牢人となって西国を放浪した。大坂の陣に際しては、家康から10万石で迎えるとの申し出を受けたが、それを断って豊臣方についたという話がある。

 塙直之の場合も、大坂の陣で豊臣方に味方した。もともと直之は織田信長に仕えていたが、次いで秀吉の部将である加藤嘉明に召し抱えられた。

 以後、直之は頭角をあらわすと、やがて鉄砲大将に抜擢され、知行1千石を与えられた。朝鮮出兵でも、水軍を率いて敵軍をたびたび撃破し活躍した。しかし、直之は功を焦ったのか、関ヶ原合戦で単身鎗を持って、無断で突撃するという軍令違反を犯したのである。

 この軍令違反をめぐって直之と嘉明は争い、それが原因で加藤家を去った。牢人になってからは、小早川秀秋、松平忠吉に仕えた。しかし、両家とも中途で改易されるという不幸に見舞われた。

 そして、ようやく福島正則に仕えたが、旧主である嘉明の奉公構によって職を失った。のちに出家して、京都妙心寺に入り法名を鉄牛と号したほどである。そして、大坂の陣がはじまると、豊臣方へ加わり入城したのである。

 このように牢人たちの就職活動は実に多様だったが、最終的に職にありつけなかったり、あるいは仕官活動を旧主に妨害されるなど、苦労が多かったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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