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責任ばかり追及する日本、若者が出世したくないのも当然だ

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:ロイター/アフロ)

 若者の「出世離れ」が取りざたされている。

 リクルートマネジメントソリューションズの「新人・若手の意識調査」によれば、管理職に「なりたい」「どちらかといえばなりたい」と回答した新人は、2016年時点でたったの31.9%。2010年では55.8%、2013年は45.0%であったから、年々減少傾向にある。同様に「なりたくない」「どちらかといえばなりたくない」と、拒否の姿勢をみせる新人も、2010年が18.2%、2013年が25.5%、そして2016年は37.9%と、増えつづけている。

 この原因に関しては、様々な見解が述べられている。いずれにせよ、およそアンケートなどは無機質なものだから、生の声を聞くのが一番手っ取り早い。よって筆者もまた、大学のゼミの学生に、なぜ管理職になりたくないのかを毎年聞くようにしている。

 かれらの答えはこうだ。先生、それは違う。自分らはべつに、管理職になりたくないわけではない。大きな仕事を手がけ、人生に充足感が得られるならば、それに越したことはない。成長の証としての肩書きは、たしかに欲しいのだ。しかし、影響力の大きさは、同時に責任の重さもまた意味する。しかも日本企業では、仕事に失敗すればコテンパンに叩かれる。メンタルはやられるし、最悪、クビになるかもしれない。見通しの明るくない日本。自らの身を脅かすくらいであれば、おとなしくしていたほうがよいと思うのは、当然ではないか。

 若者が無気力なのではない。社会が、若者の無気力な態度を生み出しているのである。「失われた20年」と言われるなか、20代の若者は、物心のついた頃からネガティブなニュースばかり耳にしている。マスコミもまた、政治家や企業の社長を叩くことばかりだ。そういう社会では、熱意をもって働く人は減っていくに違いない。それなのに中高年の人たちは、若者が悪い、若者が悪いと、さらに追い打ちをかける始末である。

 人を活かす方向に向かっていかない社会は、滅びゆくだけである。人の成長こそが、社会の成長である。いまの日本に必要なのは、かつての人間を尊重した社会の回復ではないだろうか。

責任とは何だろうか

 わが国では、責任を追及する習慣が根づいている。

 わが国で、現在用いられる文脈で「責任」という言葉が使われるようになったのは、近代以降である。責任は responsibility の訳語として定着した。responsibility とは、レスポンスする力、応じることのできる能力を意味する。つまり責任とは、人に能力があることを肯定する言葉なのである。能力があって、それを行使するとき、その影響範囲の大きさに伴って責任が生じる、というわけである。

 それなのに、昨今のわが国では、誰かをつるし上げるときにばかり「責任」という言葉が用いられる。元来が肯定的な言葉であったのに、否定的な意味で用いられているのである。しかも、現在のわが国の管理職の人たちには、責任などはほとんどない。力がないというよりは、実質上、存分に力をふるう機会が与えられていないのである。ようするに、責任の範囲がきわめて狭い。あれやこれやと上から条件がつけられて、身動きができない。これが、わが国の管理職の現状である。

 本来であれば、責任が誰にあるのかを考えるのは、よいことである。なぜなら、誰が主導になって物事が進んでいるかが、はっきりするからである。そうすると、指揮系統や組織の構造がわかってくるため、円滑に仕事が進む。大きな仕事を行う際には、合理的に物事を進める必要があるのだから、責任の所在をはっきりさせておく必要がある。

 しかし、責任追及の意味で用いられるようになると、話は違ってくる。失敗したとき、なにか問題が起こったときには、責め立てられる。がんじがらめのルールをつくるために、疲弊していく。ついには、前向きなことなど何もできなくなるのである。よかれと思って行動したこと、思いきって挑戦してみたことが否定されるとなれば、責任を取りたがる人などいなくなる。かくして、新しいことに挑戦する姿勢は失われ、日本経済は停滞し続けることになるのである。

 閉塞感ただよう日本を変えるためには、若者の力が必要である。したがってまた、若者の力を引き出す仕掛けが必要である。かれらが前を向かなくなるような言葉を投げかけるのは、もうやめよう。それよりも、彼らが思う存分暴れられるように、様々なしくみを用意しよう。若者の力を信じることから、日本経済の再建は始まるのである。

若者に責任を与えよ

 「やってみなはれ。やらなわからしまへんで。」サントリーの創業者、鳥井信治郎の言葉である。

 現在の日本企業では、トップが若者の企画を「改善」と称してつぶしてしまうことが少なくない。あるいは、新規に企画を上げても、再考の余地ありとか、採算性に疑いありなどとコメントして、彼らのやる気をそいでしまうのである。しかし、それらはほとんど言いがかりである。なぜなら、ビジネスがうまくいくかどうかなどは、やってみなければわからないからである。

 馬鹿げたことほど、それが実現されたときには、大きく花開く。これはイノベーションにおいて重要なことだから、頭に叩き込んでおいてほしい。馬鹿げたことに、確実性などない。うまくいく保証もないし、よって利益採算性の検討もできない。唯一可能なのは、やるぞと言ったときに、どれだけやるかの「意志力」の測定のみである。それは、過去において困難にうち勝とうとした経験から測定される。

 したがってまた、そのような経験を積むことから、将来の「管理職」、マネジメントに携わる者が生まれる。結局のところ、ビジネスの成否は、過去に何をしてきたか、それによっていかなる意志力と経験知が培われてきたかによって、左右されるのである。保身によって成果を上げてきた者をトップに据えてはならない。若者は、マネジメントの弱気な姿勢を簡単に見抜くことができる。若者が未来を担う気概を失うことこそ、最大の損失であると認識しなければならない。

 若者を尊重せよ。そしてかれらに自由と責任を与えよ。若者こそが明日の日本をつくるのだから。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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