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織田信長の死後、子の信雄と信孝は家督をめぐり争っていなかった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
清須城。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、清須会議の模様が描かれていた。一説によると、子の信雄と信孝は織田家の家督をめぐって争っていたと言われているが、事実なのか検討することにしよう。

 『総見記』では、織田信雄(信長の次男)、信孝(信長の三男)の出自や功績に踏み込んで、織田家の後継者問題を記している。清須城(愛知県清須市)において、秀吉、勝家、長秀、恒興の4人は、後継者を誰にすべきか、口々に意見を述べ合った。そこで出た意見は、次のとおりである。

 信雄は信長の次男であるが、光秀討伐の功がなかった。信孝は信長の三男であるが、明智光秀の討伐に功があった。2人は故あって不和であり、一方を立てると必ず争いになり、天下が乱れる。その宿意(以前から抱いている恨み)は、決して一朝一夕のことではなかった。2人の宿意とは、母親をめぐるものである。

 信忠と信雄は、母が信長の家臣・生駒家宗の娘だったが、信孝の母は坂氏の娘で、生駒氏に比べると身分が低かった。加えて、信孝のほうが20日ほど早く生まれたが、母の身分が低かったので、次男ではなく三男になった。このことを信孝は無念に思っていた。

 信雄と信孝の確執の原因は、母の出自の問題にあると言いたげである。兄弟の仲が悪かったので、信長の旧臣らは、いずれに織田家の家督を継がせるのか悩んだ。

 結果、三法師が幼少とはいえ信忠の嫡子で、また信長の嫡孫でもあるので、もっとも織田家の家督にふさわしいとの結論に至った。これならば、誰も争う必要がないと考えたのである。

 次に検討したのは、誰が幼い三法師を支えるかということだった。そこで、信雄、信孝の2人を三法師の後見とし、天下の政道は勝家、恒興、長秀、秀吉の4人が担当することになった。

 この記述を見る限り、織田家の家督を信雄と信孝のいずれに継がせるか、家臣は悩んでいたという。そこで、三法師ならば織田家の家督にふさわしく、揉めることはないだろうとしているが、2人が家督を争ったとまでは書いていない。

 『総見記』は遠山信春の著作で、貞享2年(1685)頃に成立したという。小瀬甫庵の『信長記』をもとに、増補・考証したものである。そもそも史料性の低い甫庵の『信長記』を下敷きにしているので、非常に誤りが多く、史料的な価値はかなり低いと指摘されている。

 最近の研究によると、信忠の嫡男・三法師が家督を継ぐことは既定路線で、同書のとおりである。信雄と信孝の仲が悪かった理由は、ほかにあった。その点は、改めて取り上げることにしよう。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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