【深掘り「鎌倉殿の13人」】新将軍・源実朝が誕生した、えげつない舞台裏を探る
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の33回目では、新将軍・源実朝が誕生した。その舞台裏について、詳しく掘り下げてみよう。
■源実朝の誕生と頼家
建久3年(1192)8月9日、実朝は源頼朝と北条政子の次男として鎌倉で誕生した。兄は、2代将軍の頼家である。なお、実朝の幼名は千幡であるが、煩雑さを避けるため、以下「実朝」で統一する。
建仁3年(1203)9月、比企の乱が勃発し、北条時政は政敵の比企能員ら比企一族を滅亡に追い込んだ。能員は頼家の後ろ盾だったので、時政は威勢が伸長することを恐れた。ちょうど頼家が病に伏しており、寿命は長くないと思ったので、凶行に及んだのである。
ところが、意外にも頼家の病が癒えた。想定外のことに時政は驚いたが、頼家を伊豆修禅寺に幽閉し暗殺したのである。とはいえ、時政が鎌倉殿になるわけにはいかない。そこで、新将軍に擁立されたのが実朝なのだ。
■実朝の征夷大将軍就任
頼家が殺害されたのは元久元年(1204)7月18日のことだったが、時政は朝廷に「比企の乱直後に頼家は死んだ」と虚偽の報告を行った。その後釜に据えられたのが実朝だった。
実朝が3代将軍に就任したのは、建仁3年(1203)9月7日のことだった。あわせて従5位下に叙された。実朝の名は、後鳥羽天皇から与えられたものである。おそらく時政は周到に根回しし、朝廷のお墨付きを得たと考えられる。このとき実朝は、まだ12歳の少年だった。
新将軍誕生後、頼家はむりやり出家させられた。時政、政子、義時は頼家に政治の才覚なしと認め、出家させたのだろう。非情の決断といえば聞こえがいいが、北条一族の生き残り策だった。時政は実朝を擁立し、自らが執権として後ろ盾となることで、幕府内における確固たる地位を築いたのだ。
■まとめ
実朝の新将軍擁立というのは、時政にとって既定路線だった。比企一族を滅亡させたあと、頼家を将軍の座から引きずり下ろしたのは、時政ら北条一族のクーデターである。頼家が病気であった点を割り引いても、早晩こういうことになったと考えられる。