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ソダシで桜花賞に挑戦する吉田隼人の「禍福は糾える縄の如し」な騎手の半生

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
阪神JFを勝ったソダシと共に今週末の桜花賞に臨む吉田隼人

12年前の忘れられない悔しい想い

 2009年9月20日。当時25歳の吉田隼人は、中山競馬場のメインレースで3着に好走した。この時、初騎乗だったその馬の名はフォゲッタブル。“忘れがち”という意味ではあるが、吉田にとっては忘れられない1頭となった。

 「それがセントライト記念でした。これで菊花賞の権利を取り、本番でも引き続き乗せてもらえる事になりました」

 自ら掴んだチャンスで自身初のGⅠ制覇を目指した3冠最後のその1戦。父ダンスインザダーク、母エアグルーヴという良血のフォゲッタブルを駆って差し切るか?!というシーンを演出した。しかし、フラつく場面もあり、同じダンスインザダーク産駒のスリーロールスをハナだけ捉え切れなかった。勝ち馬の鞍上は若干20歳の浜中俊。後輩の彼にとっても初めてとなるGⅠ制覇だった。

09年の菊花賞にフォゲッタブルで挑んだ際の吉田隼人。結果は悔しいハナ差2着だった
09年の菊花賞にフォゲッタブルで挑んだ際の吉田隼人。結果は悔しいハナ差2着だった

 「悔しかったです」

 吉田はそう述懐する。フォゲッタブルは続くステイヤーズSではC・スミヨンに乗り替わって優勝すると、有馬記念はC・ルメールで4着に善戦。更に続くダイヤモンドSでは武豊にいざなわれ、またも先頭でゴールを駆け抜けてみせた。そして、2度と吉田に戻ってくる事はなかった。

 「菊花賞でのハナ差が逆ならその後も全く違った事になっていただろうと感じました。こんなチャンスはもうないと思うと凹みました」

 翌年、騎乗停止中の吉田をドバイへ誘った事があった。ドバイワールドCの前哨戦を日本馬のレッドディザイアが優勝するシーンを目の当たりにして、彼は言った。

 「やっぱりジョッキーって格好良いですね。大舞台でも乗せてもらえる騎手になれる様、改めて頑張ります」

10年には騎乗停止期間中にドバイへ行き、レッドディザイア(写真)がアルマクトゥームCR3を勝利するシーンに立ち会った
10年には騎乗停止期間中にドバイへ行き、レッドディザイア(写真)がアルマクトゥームCR3を勝利するシーンに立ち会った

アクシデントを乗り越え念願の初GⅠ勝ち

 それから5年後の15年11月8日。31歳になった彼と都内で簡単な勝ち祝いをした。この日、吉田が手綱を取ったゴールドアクターがアルゼンチン共和国杯を優勝したのだ。その宴の席で「ジャパンCに行ってほしい」と彼は語ったが、陣営が選択したのは有馬記念。しかし、結果的にこれが幸運となる。ジャパンC当日の第5レース。馬場入場時に他馬に蹴られてしまった吉田は右膝蓋骨を亀裂骨折。ギプスを装着され、全治2か月と診断されてしまう。ゴールドアクターがジャパンCの出馬表に名を連ねていたら乗れなくなるところだったのだ。

15年、アルゼンチン共和国杯を勝利したゴールドアクター
15年、アルゼンチン共和国杯を勝利したゴールドアクター

 「この時点で有馬記念に於けるゴールドアクターは除外対象でした。でも、出られる事になれば乗りたいという思いがあったので、骨超音波を当てるなど充てるなどして治療につとめました」

 同馬を管理する中川公成が「ギリギリ間に合うのではなく、その前に乗れる体になっていないと……」と躊躇する姿勢を見せると、直談判した。

 「この馬の事を最も分かっているのは僕です、と伝えました」

 吉田の情熱に指揮官が折れると、風が吹いた。ゴールドアクターの有馬記念出走が可能となり、吉田も間に合う事になったのだ。グランプリ当日を振り返る。

 「パドックでチャカつくのはいつもなので気にならなかったけど、返し馬が終わった後もうるさかった時は少し心配になりました。でもレースへ行けば冷静に走る馬だと分かっていたので慌てずに接しました」

 結果は皆さんご存知の通り。吉田に操られたゴールドアクターは見事に先頭でゴール板を通過。鞍上、鞍下そろって初のGⅠ制覇を成し遂げてみせた。

15年の有馬記念。ゴールドアクター(中央青帽)を駆って吉田隼人は念願の初GⅠ勝ちを決める
15年の有馬記念。ゴールドアクター(中央青帽)を駆って吉田隼人は念願の初GⅠ勝ちを決める

悔しさをバネにした結果、出合った真っ白な馬

 ついに掴んだ頂点は、しかし“万事塞翁が馬”と思われる物語の序章となっていく。翌16年のジャパンCを4着、有馬記念も3着に敗退。続く日経賞はGⅡという事で1番人気に支持されたが5着に敗れると、乗り替わりを命ぜられてしまったのだ。

 「最終的にまた戻るのですが、当時はショックでした。騎手として後悔しないためにもこれは何か手を打たないといけないと考えました」

 そこで18年の秋に、栗東で調教に乗り始めた。

 「やる事は美浦にいる時と同じでした。ただ、栗東で新たに乗る厩舎が増えた事で凄く良い勉強になりました」

 そんな行動の成果がはっきりとした数字になって表れたのが昨年の事だった。デビュー以来自身最多となる91勝をマーク。そんな中、出合ったのがソダシだった。

 「最初は血統的にダートベターと思ったけど、デビュー前からしっかりしているとは感じました」

 真っ白なソダシの母はブチコ。その姉のユキチャンに吉田は騎乗していた。また、ユキチャンの兄姉のシロクンやマーブルケーキにも騎乗。いずれもダートで走る馬だったため、そう感じていたのだ。

 ところが芝でデビュー戦を快勝すると、続く札幌2歳Sも優勝。更にアルテミスSで3連勝を記録すると、負け知らずでGⅠの阪神ジュベナイルFに出走した。

20年阪神ジュベナイルFのパドックでのソダシと吉田
20年阪神ジュベナイルFのパドックでのソダシと吉田

2歳女王を今度は桜の女王へ

 「パドックは落ち着いていました。ただ、ゲートに心配な面がある血統なので、そこは注意してレースに向かいました」

 実際、ゲートの中でジッとしていなかったため「出遅れを覚悟した」と言う。しかし、実際には好発を決めた。

 「考えた位置で競馬が出来たけど、流れが遅かった分、3コーナーで少し行きたがりました」

 阪神競馬場の1600メートルという条件を考え、そこは我慢させた。すると、その心理を見ぬき、逆手にとるように外から動いてきた馬がいた。

 「メイケイエールでした。(武)豊さんに出し抜けをくらわされたと思い、併せにいきました」

 その分、考えていたより早目に動く事になった。結果、メイケイエールを抑える事には成功したが、ゴール直前でサトノレイナスの急襲に遭い、接戦でのゴールとなった。

 「レース後、テレビを見ていた人達からは『差し返した』と言われたけど、それはカメラ位置の関係でそう見えただけだと思います。乗っている限り1度も抜かれたとは思いませんでした」

阪神ジュベナイルFのゴール前。サトノレイナス(7番)の追撃をハナ差抑えて優勝したソダシ(6番)と吉田。角度によってはサトノレイナスが出たように見えたが吉田は「1度も抜かれてはいません」
阪神ジュベナイルFのゴール前。サトノレイナス(7番)の追撃をハナ差抑えて優勝したソダシ(6番)と吉田。角度によってはサトノレイナスが出たように見えたが吉田は「1度も抜かれてはいません」

 それでも「勝ったかどうかは分からなかった」(本人)。しかし、ハナだけ残っていた結果を知ると「一気に疲れが出た」と言う。

 「白毛というだけでも注目されるのに、GⅠで1番人気でしたからね。ソダシのために勝てて本当に良かったと思いました」

 ハナ差の悔し涙に暮れたフォゲッタブルと同じ金子真人オーナーの馬で、吉田自身初めて1番人気馬でのGⅠ制覇を同じハナ差で決めた。JRA賞最優秀2歳牝馬を決定づけた勝利は、しかし、物語の結末ではない。今週末の桜花賞(GⅠ)でソダシと吉田の第2章が幕を開ける。新たなるストーリーに期待したい。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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