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加藤清正が石田三成と対立したのは、文禄・慶長の役のときのトラブルが原因だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
加藤清正。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、ようやく石田三成が登場することになった。三成は諸大名を讒言したことで知られ、特に加藤清正とは犬猿の仲だったといわれている。なぜ、2人は激しく対立したのか、詳しく考えることにしよう。

 加藤清正(1562~1611)と言えば、豊臣秀吉の子飼いの大名であり、賤ヶ岳の七本槍の1人としても知られている。清正は秀吉の命に従い各地を転戦し、天正16年(1588)には、肥後北半国19万5千石を与えられ、のちに居城となる熊本城を築城した(もとの隈本城を大幅に改修)。

 文禄・慶長の役がはじまると、清正は朝鮮半島に渡海し、朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にするなど活躍した。

 しかし、朝鮮出兵中の慶長元年(1596)、清正召還事件が勃発した。三成は小西行長と謀り、①清正が小西行長を堺の町人であると罵ったこと、②清正が無断で豊臣姓を名乗ったこと、③清正の部下が明の正使の財貨を盗み逃亡したこと、を秀吉に訴えたという。

 これにより清正は、秀吉から帰国を命じられ、伏見屋敷で蟄居することになったのである。このとき清正は、三成と行長に遺恨を抱いたという。

 同年閏7月、慶長大地震が起こると、清正は伏見城に駆け付け、犬猿の仲の三成の登城を阻んだ。結局、前田利家、徳川家康の仲介もあり、清正は許された。しかし、清正は一連の出来事について、すべて三成に原因があると考え深く恨んだという。

 また、慶長2年(1597)における朝鮮での戦いでは、目付役の福原直高らが蜂須賀家政、黒田長政の行動を悪く三成に報告したことから、清正の怒りはさらに増幅し、後述する三成の訴訟を決意したといわれている。

 慶長4年(1599)閏3月に前田利家が病没すると、直後に清正ら七将たちは、石田三成を訴訟した。従来、七将は三成を襲撃したといわれてきたが、近年の研究では否定されている。七将は三成の専横や非道な振る舞いに対する処分を求めて、訴訟に及んだというのである。

 もちろん、三成が家康の伏見屋敷に助けを求めたというのは事実無根の妄説であり、今では三成の自邸に逃げ込んだのが正しいとされている。結果、家康らの仲介により、三成は政界を引退し、佐和山(滋賀県彦根市)に逼塞することになった。

 七将が三成を訴えた原因は、すべてが文禄・慶長の役に起因するものではない。清正の場合は、先述のとおり三成や行長との対立が原因だった。慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、清正は早々に徳川家康の味方となり、東軍を勝利に導いたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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