念願の関白になることができなかった、豊臣秀頼の無念
大河ドラマ「どうする家康」では、立派に成長した豊臣秀頼の姿が描かれていていた。成長した秀頼には、関白になるのではないかという噂が流れていたが、最終的に実現しなかった。その経緯を確認しておこう。
慶長6年(1601)4月、伊達政宗は家康の側近で茶人の今井宗薫に書状を送った(「観心寺文書」)。政宗は、今後も幼い秀頼を擁立して挙兵する者が出てくる可能性が大いにあり、そのことが豊臣家にとって不幸なことであると指摘した。
そのうえで、家康が秀頼を引き取り養育すべきであると説いている。さらに、秀頼が日本を統治する能力に欠けると判断された場合、家康は秀頼に2、3ヵ国程度(あるいはそれ以下)を与え、末永く豊臣家を存続させるとよい、と述べた。
政宗の書状から、いかに豊臣公儀の威勢が落ちたとはいえ、秀頼を擁立する諸大名の存在が想定されたので、侮れなかった状況がうかがえる。
政宗は潜在的に秀頼に心を寄せる大名の存在がいることを疑い、早急な対処が必要であると認識していたのだ。豊臣公儀がいまだ健在だったのは疑いなく、家康は早急な対処を迫られた。
秀頼の昇進スピードは摂関家と同様で、慶長2年(1597)に5歳で従三位・左近衛権中将に叙位任官された。家康が征夷大将軍に就任した時点で、秀頼は武家で家康に次ぐ正二位・内大臣に叙位任官されていた。
こうした状況から、やがて秀頼は関白職に就く可能性があった。それは、亡き父の秀吉の存在が強く影響していたかもしれない。仮に秀頼が関白に就任すれば、家康との関係も拮抗したものになったとの指摘がある。
慶長10年(1605)4月、秀忠が第二代の征夷大将軍に就任したが、秀頼の官職は秀忠の内大臣より上の右大臣だった。この事実は、豊臣公儀が健在だったことを示している。
秀頼は秀忠より官職が上ということで、辛うじて豊臣公儀の権威を保ったといえよう。実は、家康が征夷大将軍に任官される前、秀頼が関白に任じられるとの噂が流れていたのである。
慶長7年(1602)12月、醍醐三宝院の座主を務めた義演は、近く秀頼が関白に任官するという風聞を記している(『義演准后日記』)。相国寺の住持の西笑承兌も、勅使が大坂城の秀頼に派遣されたことを耳にして、関白任官の件であろうと考えていた(『鹿苑日録』)。
翌年1月、毛利輝元は国元に宛てた書状の中で、秀頼が近々に関白になる可能性を記していた(『萩藩閥閲録』)。いずれも風聞に過ぎないが、秀頼が関白に任官するとの噂があったのは事実で、強い信憑性があったようである。
文禄4年(1595)7月に豊臣秀次が高野山(和歌山県高野町)で切腹して以降、関白は長らく空席とされた。ようやく九条家当主の兼孝が関白に任じられたのは、慶長5年(1600)12月のことだった。
摂政・関白の職は、もとの摂関家に戻ったのである。以後、兼孝は慶長9年(1604)11月まで関白の職にあり、辞任後は関白が空席となった。兼孝の辞任から約8ヶ月後、近衛信尹が関白に任じられたのである。
結局、秀頼が関白に就くことはなかった。あくまで推測の域にすぎないが、家康は朝廷との良好な関係を築いていたので、秀頼が関白に就任することについて、難色を示した可能性がある。
いずれにしても、秀頼が往時の豊臣家の威勢を復活させることは、極めて困難になったのである。
主要参考文献
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)