<シリア>戦火の医師 弟が戦死するも 敵ISの負傷者救命した葛藤(写真12枚)
内戦続くシリア。6年前、取材中に怪我をした際、手当てしてくれた現地医師と昨秋再会。戦火の中の医療現場とは。(玉本英子・アジアプレス)
◆医療窮乏、弱者にのしかかる
忘れられない人がいる。シリア人医師、モハメド・アハメド先生(44)だ。
2014年、過激派組織イスラム国(IS)が、シリア北部の小さな町コバニに総攻撃をかけた。町を死守していたのは地元のクルド勢力だ。前線に取り残された住民を取材するため、入念に準備し、私は現地に入った。防弾ベストを着用してクルド戦闘員とともに行動していた。
「痛い!」
足に激痛が走った。張り巡らされた鉄条網に両ひざを引っかけたのだ。刃先はカッターのように鋭い。ズボンごとざっくりと肉が裂け、血でぬれた。そのとき応急処置をしてくれたのが、モハメド先生だった。
電気の寸断された町で、懐中電灯の明かりを頼りに、両ひざをそれぞれ十数針縫った。
「まずは大丈夫。でも戦場のケガはナメちゃいけない。消毒するから毎日来なさい」
先生はそう言ってくれた。
この1年前、私はコバニを取材していた。
当時、近郊では武装各派が衝突し、市内のアマル病院は負傷者であふれかえっていた。
戦争では、最も力のない弱者に犠牲や被害が出る。女性や子ども、高齢者が戦火のなかで過酷な状況に直面し、食料、医療が断ち切られる。アマル病院では、出産設備や医薬品は不足し、新生児の1割は助からないという状況だった。
◆ISがコバニに総攻撃、病院で自爆車両爆発
その9か月後、ISが突如、コバニ市内に攻め込んできた。圧倒的な戦力のISは、多数の戦車で一気に進撃し、町のほぼ半分を制圧した。村落部からも避難し、隣国トルコに逃れた住民は20万におよび、世界のトップニュースになっていた。
アマル病院はISの標的となり、自爆車両が突撃し、崩壊。建物は崩れ落ち、瓦礫になっていた。
当時、ウクライナで外科医として働いていたモハメド先生はコバニ出身のシリア人。
故郷の惨状に心を痛め、家も車も売り払ってシリアに戻ることを決意。彼は、すぐさま野戦病院で負傷者の救護にあたった。人が集まる病院は砲撃で狙われるため、地下に設置し、数日おきに場所を変えていた。
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先生に毎日来なさいと言われたものの、取材に追われ、私が野戦病院を訪れたのは一日遅れになった。幸い傷は悪化していなかったが、ひざの包帯を取り換えながら、先生は私をにらみつけた。
「なぜもっと早く来ない!傷が悪化して死んだ人をたくさん見てきたんだぞ」
その言葉に私は震えた。戦場取材では緊張を緩めてはいけないと分かっていたつもりだったが、深く反省した。
家族や住民に銃を向けるようなISの負傷者を手当てしたことはあるのか、と私は先生に聞いた。
彼は少し沈黙してから、口を開いた。
「弟はISとの戦いで戦死した。葛藤がないといえば嘘になる。でも、誰であっても命を救うのが医師の職務です」
重傷を負って運ばれてきたエジプト人のIS戦闘員を、7時間かけて手術したこともあった。
「この男が治療を終えれば、いつか自分たちの首を切り落としに来るかもしれないとの思いがよぎった」と話す。
◆「今も戦争は続き、命が失われている」
ISの中には負傷すると敵を巻き添えに自爆する者もいたり、「いくらでもカネを払うから助けて」と命乞いする者もいた。「死を恐れぬ神の兵士」と宣伝するが、やはり人間だと感じるという。
昨年秋、私は再びコバニを訪ね、モハメド先生との再会を果たした。私は彼を力いっぱい抱きしめた。
「コバニが平和になって良かったですね」
すると先生は言った。
「ISとの戦闘は終わったかもしれない。でも別の地域では今も戦争は続き、人びとの命が失われているのです」
私の目は涙でにじむばかりだった。
(※本稿は毎日新聞大阪版の連載「漆黒を照らす」2020年6月23日付記事に加筆したものです)