国葬が多すぎる北朝鮮 金正恩政権下の12年で早くも11回
韓国のメディアで「北朝鮮のゲッベルス(ナチス・ドイツの宣伝相)」と呼ばれていた金己男(キム・ギナム)元党宣伝扇動担当書記兼党宣伝扇動部長が死去し、北朝鮮では今朝、国葬を執り行っていた。
共産党一党独裁の社会主義政権では党組織部部長と宣伝扇動部部長が二本柱となって実権を握っているので慣例からして金己男氏の国葬は順当なところであろう。
日本では昭和の国葬は1967年の吉田茂元首相と一昨年の安倍晋三元首相の2回しかない。それに比べると、北朝鮮では国葬が多すぎる。
遡って見ると、金正日(キム・ジョンイル)前総書記の時代(1994―2011年)は1994年7月に死去した金日成(キム・イルソン)主席の国葬を除くと、2005年10月に死去した元総理の延享黙(ヨン・ヒョンムク)、2008年10月に亡くなった元国家副主席の朴成哲(パク・ソンチョル)、そして軍総政治局長と国防第一副委員長を兼務していた趙明録(チョ・ミョンロク)(2010年11月6日死去)の3人のみだった。
それが、金正恩(キム・ジョンウン)総書記の時代(2011年12月~)になると、2011年12月に死去した父親(金正日前総書記)の国葬を除いても、その数は9件に上る。(金己男国葬を含めると10回)。時系列でみると、以下の通りである。
金国泰(キム・グッテク)元政治局員兼党検閲委員長(2013年12月13日死去=享年89歳)、全秉浩(チョン・ビョンホ)元政治局員・党軍需工業部部長(2013年7月7日死去=享年88歳)、李乙雪(リ・ウルソル)元護衛司令官・元帥(2015年11月7日死去=享年94歳)、金養健(キム・ヤンゴン)政治局員・対南担当書記(2015年12月29日交通事故死=享年73歳)、姜錫柱(カン・ソッチュ)元政治局員・国際担当書記(2016年5月20日死去=享年76歳)、金英春(キム・ヨンチュン)元政治局員・元軍総参謀長・元国防相(2018年8月16日死去=享年82歳)、金鉄萬(キム・チョルマン)党政治局員候補・中央委員(2018年12月3日死去=享年98歳)、黄順姫(ファン・スニ)党中央委員・朝鮮革命博物館館長・元女性パルチザン隊員(2020年1月17日死去=享年100歳)、玄哲海(ヒョン・チョルヘ)国防省総顧問(2022年5月19日死去=享年87歳)
このうち、金正恩総書記が葬儀委員長を担ったのは李乙雪、全秉浩、金養健、金英春、金鉄萬、玄哲海氏ら6人で、その他3件は最高人民会議常任委員長が務めていた。
今回、葬儀委員長を買って出たのは金己男氏が長年、党宣伝扇動部担当書記(党部長)として3代世襲の確立と金ファミリーの偶像化に貢献したことが大きいようだ。
金総書記は昨日、故人の霊前を訪ね、哀悼の意を表していたが、朝鮮中央テレビは「金己男同志は我が党の思想部門の有能な活動家として生を終える最後の時期まで朝鮮労働党の偉業に限りなく忠実であった」と伝えていた。
葬儀委員は100人で、玄哲海(182人)、李乙雪(171人)、金英春(150人)に次いで4番目に多い。ちなみに党国際担当書記の姜錫柱氏の場合は53人、対韓担当書記の金養健氏のケースは70人だった。北朝鮮の国葬に関心を寄せるのは、葬儀委員の名簿をみれば、党の序列がわかるからだ。
金徳訓(キム・トックン)総理、趙甬元(チョ・ヨンウォン)党組織指導部部長、崔龍海(チェ・リョンヘ)最高人民会議常任委員長、李炳哲(リ・ビョンチョル)党軍事委員会副委員長の4人の政治局常務委員と10人の政治局員には変動はなかったが、政治局員候補(15人)では唯一、昨年1月に党第一副部長兼中央検査委員会副委員長に選出されていた李熙用(リ・フィヨン)氏だけがどういう訳か名前を連ねてなかった。失脚したのかどうかは不明だ。
それにしても、北朝鮮の国葬でどうにも腑に落ちないのは対象者の選定基準が定かでないことだ。
例えば、2021年12月14日に101歳で死去した金日成主席の実弟の金英柱(キム・ヨンジュ)元国家副主席は国葬扱いでなく、家族葬だった。金正恩総書記は大叔父の死去に哀悼の意を表し、霊前に花輪を送っただけだった。
金日成政権下で労働党No.2の組織指導部部長の重責に就き、国家機関では国家副主席という要職にあり、そして金正日―金正恩政権下の1998年から2019年まで約20年にわたって最高人民会議名誉副委員長を務め、最高勲章の金日成勲章に加え、2012年には金正日勲章、さらには共和国英雄称号まで授与されていた金英柱氏が国家副主席という同じ経歴の朴成哲氏とは異なり、国葬扱いされなかったのは不自然極まりない。
考えられる理由としては一時的にせよ、父の金正日前総書記と2代目の後継争いをしたことが災いしたのかもしれない。
また、昨年1月9日に92歳で死去した呉克烈(オ・グッリョル)元政治局員・軍総参謀長も例外扱いされたことも気になる。この時も金総書記は花輪を送っただけだった。
呉克烈氏は北朝鮮軍内にあっては最大の実力者であった。金正恩政権発足時に82歳だった呉克烈氏は当時、序列では60代の5位の李永吉(リ・ヨンギル)軍総参謀長(当時)と6位の張成男(チャン・ソンナム)人民武力相(当時)よりも下位の16位にランクされていたが、元老の呉克烈氏にとっては、肩書、序列は何の意味もなさない。
その一例として、金正日政権下の2010年10月の第3回党代表者会では政治局員にも、政治局員候補にも、また党中央軍事委員にも選出されてなかった。それでいながら、中央委員及び中央委員候補(229名)が全員揃っての集合写真では政治局員候補に選出された当時軍No.2の金正角(キム・ジョンガク)軍総政治局第一副局長よりも先に名前を呼ばれ、金正日前総書記の真後ろに収まっていた。
呉氏は20歳そこそこで空軍少尉として朝鮮戦争(1950-53年)に参戦し、33歳で空軍大学学長、36歳で空軍司令官、そして48歳で軍総参謀長に抜擢されたほど金日成主席と金正日総書記の信任の厚かった軍人である。
金親子から信頼された所以は、父親がパルチザン時代に金主席を守るため一命を投げ打った保衛員であったこと、また、孤児の頃、2年間金主席の妻、金正淑(キム・ジョンスウ)に育てられ、金正日氏と共に万景台革命学院で学んだことだ。
学院第一期生の呉克烈氏は金ファミリーの一員であると言っても過言ではない。特に、二代目の金正日前総書記の信頼は絶大なものがあった。実際に「先軍政治」の金正日政権時代には国防委員長の金総書記を国防副委員長として支えてきた。
金正恩政権下で最大の国葬となった玄哲海氏の肩書は元政治局員、元軍総政治局副局長、元国防第一次官、元国防委員会局長だが、呉克烈氏も元政治局員、元軍総参謀長、元党民間防衛部長、元国防委員会副委員長を歴任し、遜色はない。大将昇級も1995年10月に軍総政治局組織担当副局長就任と同時に大将になった玄氏よりも10年早い、1985年4月に大将に進級している。両氏にあえて違いがあるとすれば、4歳年下の玄氏は金正恩政権下で次帥(2012年4月)、元帥(2016年4月)と、とんとん拍子に昇級したのに対して呉氏は大将のままだったことだ。
原因は不明だが、軍総参謀総長に推挙した後輩の李英鎬(イ・ヨンホ)次帥が2012年に玄永哲(ヒョン・ヨンチョル)人民武力相(大将)が2015年に相次いで金正恩総書記に盾を突き、失脚、処処刑されたことが影響したものとみられる。ハノイでトランプ大統領(当時)との首脳会談を終え、列車で帰国した金総書記が平壌駅に出迎えていた党、軍幹部の中で杖を突いて立っていた呉氏とだけ握手を交わさず、スルーしていた場面は実に印象的だった。