織田信長はなぜ家臣や戦国大名から裏切られたのか。そのメカニズムを考える
滋賀県立安土城考古博物館では、春季特別展「信長と家康 裏切る者・裏切らざる者」が催されている。今回は、織田信長が家臣や戦国大名から裏切られたメカニズムを考えてみよう。
織田信長は天下取りの最終局面で、配下の明智光秀に裏切られて自害した(本能寺の変)。光秀が信長を裏切った理由は諸説あるが、いまだに定説がないというのが現状だろう。
周知のとおり、光秀だけではなく、多くの家臣や戦国大名が信長を裏切った。松永久秀、荒木村重、波多野秀治、別所長治などなどである。彼らは最後まで信長に抵抗したが、結局は敗れ去った。
現在のわれわれからすれば、「破竹の進撃を続けた信長に叛旗を翻すとは、あまりにも無謀だ」と考えがちである。なぜ、彼らは大きなリスクを冒してまで、信長に反旗を翻したのか、考えてみることにしよう。
まず重要なことは、当時の武将たちは損得勘定で動いていたということである。武将の忠誠心を示した逸話が残っているが、そういうものは後世の創作が多い。「作られた美しい武将像」といっても過言ではない。
たとえば、当時の戦国大名は和睦をする際、起請文を交わし、神仏に固く誓っていた。しかし、神仏に誓っていても、相手が弱ってきたら平気で和睦を破って攻め込んだ。例を挙げると、枚挙にいとまがないほどである。
それは、家臣も同じだった。今川氏は桶狭間の戦いで義元が戦死すると、たちまち弱体化した。氏真が跡を継いだが、家臣は氏真の力量を疑問視し、次々と今川家から去った。忠誠心のかけらも感じられない。
信長の例に即して言うと、当時の信長は決して安泰ではなかった。上杉氏、武田氏、北条氏は健在だったし、足利義昭を推戴する毛利氏や大坂本願寺も侮れなかった(信長包囲網)。家臣や戦国大名は、そういう状況を刻一刻と見定め、損得勘定をしていたのだ。
松永久秀、荒木村重、波多野秀治、別所長治などは信長に忠誠を誓いつつも、同様に政情を見極めていた。彼らが信長に叛旗を翻したのは、「信長が不利だ」と感じたからにほかならない。その有力な後ろ盾が「信長包囲網」だったのだ。
つまり、信長の家臣や戦国大名が裏切ったのは、無謀でもやけくそでもなく、政情を分析した合理的な決断だった。敗北したのは結果論であって、現代的な視点でのみ考察するのは不適切である。