検証:ノーベル賞受賞の仏ウイルス学者「コロナは武漢研究所の人工操作」発言をどうみるべきか
この原稿を書くのに5日間かかった。
一度は困難さに発表をやめようかと思ったが、あまりにも誤解が拡散しているので、不十分でも発表することにした。
事の起こりは4月16日、フランスのサイト『Pourquoi Docteur』(どうして?ドクター) の音声インタビューだった。
「今日は本番組独占の爆弾発言があります」と司会者、その爆弾を落とすのは、エイズウイルス(HIV)を発見して、2008年にノーベル生理学・医学賞を受賞したフランス人教授、リュック・モンタニエ氏である。
氏は、新型コロナウイルスは人為的なものであり、武漢の研究所でつくられたのだろう――と述べたのだ。
この時点で既に誤解があるが、氏はそれが事故で流出したに違いないと言っており、生物兵器など悪意であったのかという質問には、はっきり「ノン」と答えている。
さらに、「コロナウイルスを使って、エイズワクチンをつくろうとしていたと考えるのが合理的な仮説だ」と主張しているのだ。この部分がまったく抜け落ちて拡散されている。
次の日4月17日、24時間ニュースチャンネルのC-NEWSに出演して自説を述べて、一層大きな話題になった。
ちなみに、モンタニエ氏はこの件に関して、自分で論文は書いていない。「モンタニエ氏が論文を発表」というのは誤報である。さらに付け加えれば、なぜか「モンタニエ氏が『ヨーロッパ1』というテレビで語った」と引用されているが、完全な間違いである(そもそも「ヨーロッパ1」はラジオ局である)。
この話は、権威というだけで単純に信じてはいけないという、大きな教訓をはらんでいる。しかしそれ以上に「医学と人間」という、大きな命題を突きつけられているように思う。
世界的に著名な博士
モンタニエ氏は、世界的に超有名な博士である。
1932年、フランスのシャブリ生まれ、87歳である。40歳くらいのときに、世界で名高いフランスの「パスツール研究所」で、新しいウイルス学部門の中に、ウイルス腫瘍学部局を設立した。
それから約10年後の1981年、アメリカで「第一号」のエイズ患者が認められた。
エイズは世界中に広まったが、「突然」現れた得体の知れない恐ろしい伝染病で、しかも死に至る病だった。
1983年に病気の原因となるHIVウイルスを発見したのが、リュック・モンタニエ氏と、同僚のフランソワーズ・バレ=シヌシ氏だ。
以来、モンタニエ氏への賛辞は世界から贈られた。ノーベル賞を受賞する前から、世界各国の錚々たる団体から、賞が雨あられと授与された。
ラスカー医学賞(アメリカ財団)、シェーレ賞(スウェーデン)、ガードナー賞(カナダ)、ファイサル王医学賞(サウジアラビア)、ハイネケン医学賞(オランダ王立アカデミー)、 アストゥリアス皇太子医学賞(スペイン)・・・書いているとキリがない。
日本からは科学技術者に贈られる「日本国際賞」が授与された。授与式には天皇陛下ご夫妻や三権の長が出席する、最高峰の賞だ。
エイズ問題は、当時いかに世界の大問題だったか、今の新型コロナウイルスに引けをとらない問題だったかがうかがえる。
その博士が新型コロナウイルスは「武漢研究所で人為的につくられたウイルス」と言ったのだから、この発言が世界にどばっと広がらないわけはなかった。
モンタニエ教授の言い分
では、博士は、具体的に何を言ったのだろうか。
武漢の研究所は、2000年初頭からコロナウイルスに力を注いできた(筆者注:人に感染するコロナウイルスは、今の新型が7つめ)。
新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のシーケンス(配列)の分析を行っているのは私だけではない。私の同僚で、バイオ数学者であるジャン=クロード・ペレーズも行っている。バイオ数学というのは、数学の論理を生物学にあてはめる学問である。
彼はウイルスの配列の細部にまで掘り下げた研究を発表した。でも彼が初めてではない。その前にインドの研究者グループが分析を公表した、いや、しようとしたのだ。科学的真実というのは重い。隠そうとしていても、現れるのだ。
見て驚いたのだが、そこには別のウイルスの配列が入っていたのだ。
それは自然に混ざったものではない。大元はコウモリのウイルスだから、それを組み替えたのだ。海鮮市場から出たというのは、美しい伝説だ。そのような可能性はない、乏しい。
最も合理的な仮説は、誰かがエイズ(HIV)のワクチンを作りたかった、そのためにコロナウイルスを使ったと考えることだ。
陰謀論ではない。陰謀論とは、何かを隠す人のことだ。
ウイルスは、武漢の研究所から「逃げた」ものだろう。
とにかく、誰かが――誰かを責めるのは私の役割ではないが、コロナウイルスを使って、エイズウイルスのワクチンを開発しようとしたのだ。
中国政府が知っていたのなら、彼らには責任がある。中国は大きいので、間違いは起こるだろう。
――抄訳すると、このような内容を音声インタビューでもテレビインタビューでも言っている。
しかし、筆者の見る限り、すべてのフランスの信頼に足るメディアは、この権威の言うことに対して、検証か批判をつけて記事を流していた。
反対する根拠は、主に二つあった。科学的な反論、そしてこの人物に対する反論だった。
日本語の発信では、この後半部分がすっぽり抜け落ちている。ネットで拡散する記事の信憑性をチェックする組織は、日本のメディアにはないのだろうか。欧州には、各メディアで事実のチェック部門を設けているだけではなく、メディアで横断的に偽ニュース(フェイク・ニュース)に取り組む枠組みがあるのに。
仏メディアの科学的な反論
まずは科学的な反論から。
最初の音声インタビューが流れた際、視聴者からも「インドの研究って何?」という質問があった。これに対して、モンタニエ氏は何も説明していない。
『ル・モンド』によれば、このインドの「論文」なるものは、科学誌に掲載されたものではない。研究の結論の大まかな概要を公開前に掲載するサイトに、1月下旬、ニューデリーの「Indian Institute of Technology」の研究者が発表したものだという。
この発表では、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のタンパク質のアミノ酸配列が、エイズウイスル(VIH-1)のそれと「奇妙な類似性」があり、「偶然である可能性は低い」と言っている。
多くの専門家がこの研究に異議を唱えたために、インドの研究者たちは撤回した。しかしその前に、陰謀主義とセンセーショナル主義のウェブサイトによって、どばっと広まってしまった。
「奇妙に類似している」アミノ酸配列――ウイルスの遺伝的遺産によって定義される――は、実際に多くの株でよく見られるものである。だから専門家は批判したのだった。
オーストラリア国立大学の遺伝学者で、グループリーダーのGaEtan Burgio博士は、次のように否定している。「エイズ(HIV)ウイルスの配列との類似性があまりにも少なすぎて、遺伝物質の重要な交換があると結論付けることはできません」。
1月、科学コミュニティの「Massive Science」は、エイズ(HIV)ウイルスと新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)に共通するシーケンス(配列)で、同じものを持つ別の15種類ほどのウイルスをリストアップした。例えば、サツマイモ・ウイルス、ネクタリン・ウイルス、スズメバチ・ウイルスなどがあった。
さらに、共通したシーケンス(配列)が短いため、このリストすらそれほど重要ではないという。「エイズ(HIV)の配列が本当に挿入されていれば、断片ははるかに大きく、より特異だっただろう」とBurgio博士は言う。「偶然の一致だろう」。
もう一つの問いがある。シーケンス(配列)は人工的につくることができるのか。
新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)が遺伝子工学の産物であったかもしれないという考えも、全会一致からは程遠い。
人間が作ったウイルスは存在するが、多くの場合、既存のウイルスの見事な組み合わせであり、一般には微生物学者が簡単に認識できる。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)には人工ウイルスの特性がなく、人間の介入があったことを示唆する遺伝的借用の疑わしい証拠はない。
『ル・モンド』がインタビューしたパスツール研究所の研究者であるエティエンヌ・シモン=ロリエール氏は、「それが人工的なものであることに疑いを持つことは、あまりにも当然なことのように見えます」と述べた。
「そのような大きなウイルスを作成するには、世界中のほとんどの研究室が持っていない技術的な知識が必要です。間違いなく12カ所以下でしょう」
新型コロナウイルスは「ACE2受容体」というものによって人体に根をおろすのだが、「科学者が、これほどにACE2受容体と相互作用するウイルスを作成できた可能性は、ありそうにありません。このメカニズムは、以前は知られていなかったのです」
受賞後のモンタニエ氏の評判
ノーベル賞を受賞したのち、モンタニエ氏の評判は全くかんばしくない。
日本語では「トンデモ学者」「オカルト学者」とすら言われている。
今日、モンタニエ氏は、パスツール研究所に縁を切られている。現在も名誉教授ではあるのだが。また、フランス国立医学アカデミーからも非難されている。ここでも彼はメンバーであるのだが、今、足を踏み入れることは決してない。
彼の言動により、科学界からたくさんの批判と嘲笑を受けてきたと、フランスの『L'EXPRESS』誌は説明する。
ノーベル賞を受賞した翌年の2009年、彼はインタビューで、人体というものは、良い抗酸化の栄養の助けを借りた、良い免疫システムによって、エイズウイルスからよりよく身を守ると述べて、科学者の怒りをかった(良い免疫システムをもっていれば、数週間でエイズウイルスを追い払うことができるとさえ述べた)。
彼はまた1年後、ホメオパシーの根拠となった「水の記憶論」と、その著者であるジャック・ベンヴェニストを擁護した。しかし、これは科学的詐欺であることが証明されている。モンタニエ教授が当時提唱した実験は、科学誌『ネイチャー』によって批判され、「再現不可能」と宣言された。
ホメオパシーとは、「レメディー」と呼ばれる治療薬を飲んで治療をするというもの。治療薬は、植物、動物組織、鉱物などを水で100倍薄めて振る作業を、10数回から30回程度繰り返して作った水を、砂糖玉に浸み込ませたもの。
「ただの水」なので「副作用がない」が、治療効果もあるはずがない。「水が、かつて物質が存在したという記憶を持っているため」と説明されている――と、日本医学界(日本医師会の下部組織)公式サイトは述べている。
ちなみに、なぜ「振る」のかというと、振とうを加えて活性化するのだそうだ。
2012年には、約40人のノーベル賞受賞者が、「彼は専門ではない分野で発言することによって、科学的および医学的な欺瞞をつみかさねている」と嘆願書に書いた。これはアフリカの国カメルーンが、氏を研究所所長に迎えようとしたときに書かれたものである。
そこに書かれていた内容は、怒りと警告に満ちている。
「パーキンソン病に悩むヨハネ・パウロ2世教皇に『発酵パパイヤ抽出物』を提供、 電磁波で血液中の細菌を検出するというライム病の診断テスト(訳注:ライム病とは、ダニによって媒介される人獣共通の細菌による感染症)、最低限の(論文などの)発表も無しに「水の記憶」が現実であるという自称の証拠。医学は嘲笑され、患者はだまされ、同胞は悪用された。これらの虐待を非難するのに、公的権力と保健機関は、何を待っているのでしょうか(訳注:「ぐずぐずしてないで、さっさと公的機関が非難しろ」と婉曲的に言っている)」。
モンタニエ氏の人生
このように、フランスのメディアは、どこも必ず「モンタイエ氏の主張は極めて疑わしい」理由の説明をつけて報道している。
本人のインタビューを放送した「pourquoi docteur」や「C-NEWS」は、報道した責任を感じるのか、記事においては他の媒体よりもモンタニエ氏を糾弾する口調が厳しいように感じた。
このニュースに接して、筆者が何を思ったかを書いてみたいと思う。
2つのインタビューを視聴したが、本当かどうか疑うのに十分な内容だった。言っていることに根拠を全然示していないからだ。
テレビのキャスターが「今は働いているのですか、研究室で」と聞くと、モンタニエ氏は、必ずしも研究所では働いていないが、同僚とパソコンで仕事をしていると答えた。
会話はきちんと成り立っている。でも、氏がノーベル賞受賞者だと知らない人が聞いたら、「はいはい、おじいちゃん」と言われても不思議はない感じである。
考えこんでしまった。彼はなぜこのようなことを言ったのだろうか。
おそらく、モンタイエ氏にとって、中国の作為のほうは問題ではないのだ。実際、「誰がどうしてなぜそんなことをしたのか、私は知らないし、糾弾する立場にない」「中国には友達がいるし、コロナ問題が起きる前に、数週間中国にいた」と、自分の守備範囲ではないように言っている。
そして、「間違いであったのだろう」と言っているし、「もし中国政府が知っていたのなら、責任はあるだろう」くらいしか答えていない。氏は、陰謀論とは程遠いところにいる。おそらくそんなことには、まったく関心がない。
氏が声を大にして言いたいのは、エイズのほうなのだと思う。
エイズ禍というもう一つの疫病
氏の人生は、エイズという、人類の生存史上に刻まれる疫病とともにあった。
この病気が突きつけた免疫と人体の問題に人生を捧げた。
エイズはまだ解決していないのに、それに勝るとも劣らない今回の疫病がやってきた。この事態を前に、モンタニエ氏は何を思ったのだろうか。
エイズは、正式には「後天性免疫不全症候群」という病名である。免疫機能が働かなくなり、健康なときなら問題にならないような病原体に抵抗できなくなる。こうして病気になる。かつては死に至る病と思われていた。
ウイルスが原因であることは突き止められた。それでも決定的な治療法は、まだみつかっていないと言えるのではないか。
恐ろしいウイルスの病といえば、天然痘がある。効果的な薬はないが、種痘(ワクチン)のおかげで世界から根絶できた。
ペストには、ワクチンはない。でも、ウイルスではなくて細菌なので、抗生物質などの抗菌剤がある。治療は10日から2週間程度の服薬でよいという。
結核には、BCGワクチンもあるし、効果的な抗菌剤もある。6カ月程度の服薬ですむ。
しかし、エイズにはどちらもない。ワクチンも、特効薬もない。新型コロナウイルスと同じである。
今でこそ、エイズは患者によっては1日1錠の薬だけでも良い時代になってきた。素晴らしい進歩だ。しかし、検証は続いている。そして患者は一生薬を飲み続けなければならない。
2018年の朝日新聞の記事によると、90年代後半には、患者は1日計20錠の服薬が必要だった。薬には、腎機能障害や貧血などの副作用の問題が生じた。
2000年代になると、薬は4錠から2錠程度に減り、1日1回の服用ですむようになった。しかし今度は、神経系統の副作用の問題が出てきた。さらに、糖尿病や脂質代謝異常の問題や、薬が効かなくなったウイルスへの対処が求められたりした。
薬の開発は、副作用との戦いの歴史であった事を示している。新型コロナウイルスも、もしかしたら同じ道をたどるかもしれない。
薬には、臨床実験が繰り返されてきた。新薬に不安を覚えながらも、助かりたい一心で飲み続けた患者が世界中にいた。
副作用に苦しみ、エイズに打ち勝てず亡くなった人は大勢いた。世界保健機構(WHO)によると、今まで7500万人が感染し、3200万人が亡くなった(死者数は、大体マレーシアの人口に匹敵する)。このような積み重ねがあったからこそ、薬は向上していったのだが。
モンタニエ氏が生きたのは、そういう時代だった。氏が近代科学を否定するような方向に走ったのは、苦しみながら薬を飲むエイズ患者を知りすぎてしまったからなのだろうか。
それでは氏は、エイズワクチンの開発を切望するあまり、今回のような発言になってしまったのだろうか。それも違う。
氏は30年以上もワクチン反対論者である。種痘のように天然痘を根絶させたものはあるが、ひどい代価を払っているものがあると主張している。
数年前、フランスで子供に対するワクチンの政策が変わろうとして、大きな議論を呼んだ。
モンタニエ氏はワクチンは善意で始まっていることだが、すべての人々を少しずつ中毒にしていると述べて、猛反発をかったという。しかも、大量のワクチン接種と、原因不明の乳幼児突然死症候群が関係があるとすら言った。
2017年11月には、106人の科学と医学の学者が、猛烈な抗議をしている。
「根拠がない」「ノーベル賞受賞者という立場を利用している」など、モンタニエ氏に対する批判はいつも同じである。そして、それらの主張以上に、モンタニエ氏の発言には、何か科学に携わる者を逆なでする要素があるように見える。
ただ、今回のことはちょっと違うようだ。今まで物議をかもしてきたのは、治療の問題だった。今回は逸脱している。
それでも、筆者が感じるのは、中国政府の陰謀だのアメリカ政府の批判だの、モンタニエ氏は関心がないのだ、彼の頭の中はエイズと人体の問題でいっぱいなのだろう――ということだ。
たとえ世界の権威であろうとも、モンタニエ氏は私達と同じ、一人の人間だ。7500万人のエイズに苦しむ患者から「エイズの権威」と見つめられ続けた博士は、そのことをどう受け止めてきたのだろう。
司会者は、アメリカの政治家はこう言ったとか、中国の反論はどうとか、そんなことを博士に聞く必要はなかった。エイズ以上に社会に影響を与えた、今回の「新型コロナウイルス」という疫病をどう思ったのか、世界規模のパンデミックが何度も起こるこの時代に、私たち人間はどう向き合うべきだと思うか、博士に聞いてほしかった。