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<ミャンマー>「民主化あきらめず前進を」 軍政に抗した老闘士が遺した言葉(写真10枚)

玉本英子アジアプレス・映像ジャーナリスト
釈放後も囚人服と同じ青い服を着続けたウィンティンさん。(2010年・玉本撮影)

◆常に警察の尾行がついた

2月1日、ミャンマーでは国軍によるクーデターが起こり、国家顧問のアウンサンスーチーさんらが拘束された。市民は各地で抗議行動を繰り広げ、治安部隊の銃撃で死傷者が相次ぐ事態となっている。この国は半世紀以上もの間、軍事政権下に置かれてきた。自由を求める人びとは、弾圧に苦しんだ。軍政下にあった2010年、私はミャンマーの主要都市ヤンゴンで、民主化運動の老闘士、故ウィンティン氏を取材した。(玉本英子・アジアプレス)

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政治囚として19年間投獄されたウィンティンさん。その後も常に警察の監視下に置かれた。取材時にも4人(写真左)の私服警官がカメラでこちらを撮影していた。(2010年10月ヤンゴン市内・玉本撮影)
政治囚として19年間投獄されたウィンティンさん。その後も常に警察の監視下に置かれた。取材時にも4人(写真左)の私服警官がカメラでこちらを撮影していた。(2010年10月ヤンゴン市内・玉本撮影)

ジャーナリストのウィンティンさん(当時81歳)は、1988年にアウンサンスーチーさんとともに国民民主連盟(NLD)を立ち上げた中心的人物だ。政治囚として投獄され、19年の獄中生活を経て釈放された。出所後は刑務所での過酷な経験を執筆するなどの活動を続けた。彼の名は多くの市民に知られるほどだった。

私はウィンティンさんとヤンゴン市内の喫茶店で待ち合わせをした。彼には4人の私服警官の尾行がついていた。場所を移動しようと急いでタクシーに乗り込んでも、警官たちはバイクにまたがり、追いかけてくる。

「私はいつも監視され、どこに行ったか、誰と会ったか、すべて記録されるんです」。

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ウィンティンさんとタクシーに乗り込むと、私服警官(中央の2人)がこちらの動きを確認し、バイクで尾行してきた。(2010年10月ヤンゴン市内・玉本撮影)
ウィンティンさんとタクシーに乗り込むと、私服警官(中央の2人)がこちらの動きを確認し、バイクで尾行してきた。(2010年10月ヤンゴン市内・玉本撮影)

◆釈放後も囚人服の色、青を着る

彼は、いつも青いワイシャツを着ていた。青は囚人服の色で、自分は今も囚(とら)われの身であり、獄中にいる仲間を決して忘れない、との思いからだ。長期の独房生活では、眠ることも認められなかったり、食べ物が与えられなかったりすることもしばしばだった。何度も激しく殴打され、歯を失った。2000人にもおよぶ政治囚が拷問や虐待を受けてきた。

ウィンティンさんは私にこう話した。

「国軍が新たな政治体制を対外的に取り繕うとも、権力は手放さないだろう」。

政治について温和な口調で語りながらも、その眼光は鋭かった。

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2010年、軍政下にあったミャンマーでの総選挙の頃。ヤンゴン市内の各所に治安部隊が配置され、緊張していた。(2010年10月・玉本撮影)
2010年、軍政下にあったミャンマーでの総選挙の頃。ヤンゴン市内の各所に治安部隊が配置され、緊張していた。(2010年10月・玉本撮影)

民政移管前のヤンゴン市内。一見平和に見えたが、軍政下にある人びとは政治的な話には口をつぐんだ。(2010年8月・玉本撮影)
民政移管前のヤンゴン市内。一見平和に見えたが、軍政下にある人びとは政治的な話には口をつぐんだ。(2010年8月・玉本撮影)

◆「軍政は人びとを苦しめた」

窒息しそうな軍政下の社会のなかで暮らしていた市民もまた、民主化を願っていた。だが、逮捕を恐れ、反軍政的な言葉を表立って口にする人たちは少なかった。

ヤンゴン市内のある民家を訪れたとき、40代の女性が言った。

「軍政は人びとを苦しめ、暗い未来しか見えない」。

そしてベッドの下に隠していたアウンサンスーチーさんの写真を見せてくれた。

「私の心の灯火(ともしび)です」。

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「軍政は人びとを苦しめてきた」。40代の女性は自宅の部屋に隠していたアウンサンスーチーさんの写真を手にしながら言った。(2010年10月ヤンゴン市内・玉本撮影)
「軍政は人びとを苦しめてきた」。40代の女性は自宅の部屋に隠していたアウンサンスーチーさんの写真を手にしながら言った。(2010年10月ヤンゴン市内・玉本撮影)

その後、アウンサンスーチーさんは自宅軟禁を解かれる。形式上の民政移管が進められ、議会補欠選挙では、彼女が率いるNLDが圧勝。私は再びミャンマーに入り、歓喜に沸く市民を取材した。誰もが政治について自由に語り始めていた。しかし軍政に有利な憲法は変わらず、権力は温存されたままだった。

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軍事政権時代のミャンマー国営テレビの画面。英BBCなどのメディアが政府と国民を敵対させているとの趣旨で、「『厄介者』が悪事を企む、電波による殺人者、惑わされぬよう気をつけろ」(2010年8月・玉本撮影)
軍事政権時代のミャンマー国営テレビの画面。英BBCなどのメディアが政府と国民を敵対させているとの趣旨で、「『厄介者』が悪事を企む、電波による殺人者、惑わされぬよう気をつけろ」(2010年8月・玉本撮影)

2010年11月の総選挙では、当時軟禁下にあったアウンサンスーチー氏が率いるNLDはボイコット。写真は国軍系の連邦団結発展党(USDP)の選挙運動ポスター。(2010年10月ヤンゴン市内・玉本撮影)
2010年11月の総選挙では、当時軟禁下にあったアウンサンスーチー氏が率いるNLDはボイコット。写真は国軍系の連邦団結発展党(USDP)の選挙運動ポスター。(2010年10月ヤンゴン市内・玉本撮影)

2014年、ウィンティンさんが病気で亡くなったとの知らせを聞いた。葬儀の際、棺に納められた亡骸(なきがら)は、青いシャツをまとっていたという。彼の遺(のこ)した言葉を思い起こした。

「すぐに民主化は実現しないだろう。私たちは何年も闘ってきたし、これからも闘うことになる。幾多の困難があっても、前進することが重要です」。

2月のクーデター後、軍は国民の統制に乗り出し、情報の遮断も始めた。ミャンマー全体が再び監獄のようになりつつある。弾圧に直面する人びとが、本当の意味で青い服を脱げる日は来るのだろうか。日本を含む国際社会は、人権状況に関心を寄せ続けるべきだ。

2010年11月、アウンサンスーチーさんは軟禁を解かれ、2012年の連邦議会補欠選挙でNLDは大勝。「新しい時代の幕開けであることを願う」と述べた。今回のクーデターで拘束が報じられた。(2012年4月ヤンゴン市内・玉本撮影)
2010年11月、アウンサンスーチーさんは軟禁を解かれ、2012年の連邦議会補欠選挙でNLDは大勝。「新しい時代の幕開けであることを願う」と述べた。今回のクーデターで拘束が報じられた。(2012年4月ヤンゴン市内・玉本撮影)

2021年2月に起きた国軍によるクーデターに抗議する市民。「我々は民主主義を求める。軍事クーデターを非難する」とのプラカードを掲げている。(2021年2月タニンダーイ管区ベイ市内・BayBay撮影)
2021年2月に起きた国軍によるクーデターに抗議する市民。「我々は民主主義を求める。軍事クーデターを非難する」とのプラカードを掲げている。(2021年2月タニンダーイ管区ベイ市内・BayBay撮影)

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(※本稿は毎日新聞大阪版の連載「漆黒を照らす」2021年3月30日付記事に加筆したものです)

アジアプレス・映像ジャーナリスト

東京生まれ。デザイン事務所勤務をへて94年よりアジアプレス所属。中東地域を中心に取材。アフガニスタンではタリバン政権下で公開銃殺刑を受けた女性を追い、04年ドキュメンタリー映画「ザルミーナ・公開処刑されたアフガニスタン女性」監督。イラク・シリア取材では、NEWS23(TBS)、報道ステーション(テレビ朝日)、報道特集(TBS)、テレメンタリー(朝日放送)などで報告。「戦火に苦しむ女性や子どもの視点に立った一貫した姿勢」が評価され、第54回ギャラクシー賞報道活動部門優秀賞。「ヤズディ教徒をはじめとするイラク・シリア報告」で第26回坂田記念ジャーナリズム賞特別賞。各地で平和を伝える講演会を続ける。

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